2018年01月18日

昔ファミリーベーシックってものがあったんだよ

あったんですよ。



皆さんやってましたか?覚えてますか?ファミリーベーシック。

ベーマガの特選プログラムのコーナーとか、Dr.Dの投稿プログラム添削とか、懐かしいですよね。

「君だけのゲームが作れる!!」「君のゲームでマリオが動く!!」っていう言葉が最大の売りだった、ゲームプログラミングツール。1984年という、ファミコンの歴史からするとド初期に叩き込まれた、曲りなりにも開発プラットフォーム。

しんざきは、兄の門前の小僧で、このファミリーベーシックを遊んでいました。

しんざきと兄は5歳違いでして、当時兄は既に小学校高学年でした。一方私は幼稚園からようやく小学校に上がる頃。

それでも、「任天堂のファミリーベーシック入門」とか、「ぼくらのファミコン入門」とか見ながら、何時間もかけて参考プログラムをぽちぽち打ち込んで、散々エラーで怒られて、ついにRUNさせたらコントローラーでマリオが左から右に動いたりしたんですよ。


いや、これ、笑うところじゃありませんよ。

「自分が打ち込んだプログラムで、画面上のマリオがコントローラー操作に基づいて動いた」

んです。

当時、本当にこれだけでもドすげえ感動しましたし、たとえプログラミング入力に数時間かけて遊ぶのは10秒、という状況だったとしても、あれは間違いなく、私にとっては「ゲーム開発」以外の何者でもなかったんです。

そこから、何だかんだで、私数年はファミリーベーシック続けてました。

勿論そんな大したゲームが作れたわけではないです。プレイヤーに数字を入力させて、ランダムな数字を当てさせる数字当てゲームとか、サンプルプログラムをちょっといじってパラメーターを変えただけのゲームとか、精々そんなもんです。

ただ、今私が一応システム関係の仕事をしていて、最近はあんまりですけどなんだかんだコードも書いてたのも、根っこには間違いなくあの「ファミリーベーシック」があったと思うんですよね。

我々は、ファミリーベーシックで変数定義を学んだ。

関数を学んだ。

ルーチンを学んだ。

アルゴリズムを学んだ。

DEF MOVEを、IF THENを、行番号とGO TO を、CGSETを学んだ。エラー処理を、デバッグを学んだ。

たとえそれが、どんなに切れ端の知識であって、時にはファミリーベーシック以外ではなんの応用も出来ない知識だったとしても、あれって「何かの始まり」ではあったと思うんです。


ファミリーベーシックって、結局どれくらい普及したんでしょう?wikipediaの記載では40万台は売れたってことですけど、これがV3やらバージョン違いも全部合わせた数字なのか、国内だけなのか世界なのか、その辺はよく分かりません。

ただ、勿論、当時ファミリーベーシックを買った子どもたちが、皆が皆ゲームを作れたか、っていうと恐らく全然そんなことはないんです。

「ゲームプログラムモード」がハードル高いものだということは、任天堂も最初から分かっていたんでしょう。だから、大本のファミリーベーシックは、カリキュレーターモードとか占いとか、プログラムモード以外の遊びを入れざるを得なかった。ゲームプログラム以外の最低限の遊びも含めざるを得なかった。多分、「占いやミュージックモードをちょっと遊んで終わり」くらいの子どももたくさんいたんじゃないでしょうか?

ただ、ファミリーベーシックで任天堂がユーザーに言いたかったメッセージって、間違いなく

「作れ!!作ると面白いぞ!!!」

だったと思うんですよ。そこは、多分そこだけは間違いない。

あの時、実際に「作った」ファミっ子がどれだけいたのか。それは勿論想像するしかありませんが、少なくともそのメッセージが届いた子どもたちが、私を含めて複数人いたことは間違いない。そして、そういう子どもたちの中には実際、「作ると面白いぞ」という言葉を実感し、最終的には作る側に回った子どももいたんです。ゲームでこそないものの、私もその端くれです。

作るの面白いよ、というメッセージ。勿論、他にも多くのメーカーが発し続けてきたメッセージではありますけれど、任天堂にとっても、そのメッセージって多分特別言いたいことであり続けているんだろうなーと思ってたんですよ。マリオペイントしかり。miiスタジオしかり。最近でも、マリオメーカーなんてその代表例でしたよね。

で、NINTENDO Laboを見たんです。



姿も違うし、出来ることも、出来る範囲も、実際にやることもぜーーんぜん違うけれど。

これはもしかすると、時代を越えてもう一度「作れ!!!!」ということをユーザーたちに叫んでいる、ファミリーベーシックの再来なんじゃないかなーと。

かつてのファミリーベーシックと同じように、ハードルの高さを感じる人も、買ったはいいけどすぐ押し入れにしまっちゃう人もたくさんいるだろうけど。

その中で、多少の人数には「作れ」というメッセージがダイレクトに届いて、数十年後に全然違ったフィールドで何かを作るようになる子どももいるのかも知れないなー、と。

そんな風に思ったんです。




posted by しんざき at 13:12 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

しんざき家に電子ピアノがきました 18/01/16

きました。

うちにきた電子ピアノ

しんざき家には6歳の女児双子がおりまして、4月には小学生になります。いやー、早いもんですね。

で、この二人、性格も違えば趣味嗜好もだいぶ違っておりまして、芸術的な話で言うと、長女は絵、次女は音楽にだいぶ嗜好が寄っているような気がします。

その為なのか、次女は以前からピアノを喜んで弾いており、練習もだいぶ熱心です。しばらくの間はおもちゃの電子ピアノで練習していたんですが、どうせ奥様も使うし、ということで本格的な電子ピアノが導入されました。結構でかいです。写真は、喜んで「10人のインディアン」を練習している次女。

一方の長女はというと。ピアノが嫌いなわけではないようなのですが、どうも「人前で演奏するのが恥ずかしくて嫌だ」という、極めて恥ずかしがり屋の精神の持ち主であるらしく、あまりピアノをやりたがりません。一方、お絵かきについては大好きであるようで、幼稚園が終わった後の「アトリエ」というお絵かき教室を、今後も続けたいと大主張しています。

まあ、それぞれやりたいことがあるのはいいことなので、出来るだけ好きなことを続けさせてあげたいと思っています。その内次女とゲーム音楽合奏でも出来るといいなあと思っている次第。

一方長男は、学校の成績なんか見ているとどうも音楽は得意そうなのですが、自宅では全くピアノに近寄りません。折角だから使ってみてもいいのになーと思うんですけどね。

一方の私はというと、「どれがドなのかよくわからん」という程度にピアノの習熟度が皆無です。

そういえば先日初めて人前でピアノを弾きまして、私音は覚えてるんだけどどの鍵盤がどれなのか分からないのでこんな感じで次女のおもちゃピアノ設置して見比べながら弾きました

音は覚えているので、こうやって、次女が以前使っていたおもちゃのピアノと見比べながらピアノを弾く次第。次女に「よくひけてるねーー!」と上から褒められました。ありがとうございます。

しかしあれですねーー、電子ピアノって超便利ですね。ヘッドフォン繋げるんで、夜でも周囲を気にせず一人で練習できる。ケーナもヘッドフォン繋げたら自分にしか音が聴こえないようにならないかな。

調べてみるとUSBで音を出力したり、PCに繋ぐことも出来るようなので、その内私の方の活動でも何かに使えるかなーと思っている次第。引き続き色々やっていきたいと思います。

一旦それくらいです。
posted by しんざき at 12:24 | Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月15日

図書館くらい「安心して孤立出来る場所」にしておいてあげて欲しいなあ、と思った話

こんな記事を読みました。


生徒のなかには、学校や家庭で居場所がないと感じている子どもたちがいます。また、卒業後に学校や就職先といった「所属」を失ったまま孤立し、支援につながれなくなる子どもたちも。

”孤立”は、引きこもりにつながったり、ネットに居場所を求め犯罪に巻き込まれたり、と様々なリスクと隣り合わせでもあります。

カフェが掲げるのは、生徒たちへの「予防型支援」。

孤立している、もしくは卒業後に孤立する恐れのある高校生たちに居場所を作ることで、彼らに起こりうる困難を予防すること。これが、ぴっかりカフェの目的です。

これを読んだ時の第一感は、「図書室くらい「安心して孤立出来る」場所にしておいてあげて欲しいなあ」でした。

いや、この試み自体は別にいいと思うんですよ。週一みたいですし、実際にこういう空間があることで救われている生徒もいれば、対人関係が改善された子も、居場所が出来て喜んでいる子も恐らくいるのでしょう。それは良いことだと思うんです。

ただ、これを見て全国の図書館、全国の図書室がどんどんこういう試みを始めて、活動の期間も広がっていって、みたいな展開には、出来れば慎重であって頂きたいなあ、と。

何故かというと、「教室に居場所がない子」に必要なのは、むしろ「誰ともコミュニケーションを取らないで済む空間」ではないかなー、と思うからです。

コーンポタージュとトルコのおやつだってー!!!!いえーい!!!

ハイテンションで飛び込んできた男子生徒は、ぴっかりカフェ常連の高校1年生。そのあとも続々と生徒がやってきて、ソファや椅子はあっというまに満席に!高校生たちの笑いさざめく声であふれ、図書館とは思えないほどのにぎやかさです。
いや、当然のことながら、こういうノリが嫌いというか、根本的に苦手な子もいる訳じゃないですか。中には、普段教室にいる時の「コミュニケーションをとらなくてはいけない」という、言ってみればコミュニケーション圧力に疲れ果てて、一人でじっと本を読んでいても誰にも文句を言われない、静かな図書館を心の救いにしている子も勿論いると思うんですよね。

「学校にいなくてはいけない」ということ自体が戦いであるような生徒の中には、図書館がむしろ、唯一平和に、安全に孤立出来る、シェルターのような場所だという子もいたと思うんですよ。

そういう唯一の「孤立出来る場所」が、陽性のふるまいも出来る子どもたちや大人にとっての社交的な空間になった時、そういう子がどう感じるか、というのは想像に難くありません。

というか、「いえーーーい!!」とか言いながらハイテンションで飛び込んでくることが「出来る」子は、その時点でそこそこコミュニケーション能力が高いような気がしないでもありません。少なくとも、陽性のコミュニケーションをとる資質は確実に持った子である、とは言えると思います。

一方、陽性のコミュニケーションが苦手な子に対して、無理やり「さあこういうコミュニケーションの場もあるんだよ!!」と陽の当たる場所に引っ張りだすのは、聊か乱暴な措置だと感じないでもありません。



ちょっと思ったんですが、「孤立」って言葉がちょっと無条件で悪役にされ過ぎなんじゃないかな、と。

勿論、心の内ではコミュニケーションに飢えていて、けれど友人関係や大人との関係が上手くいかなくって、結果的に孤立してしまっている子、というのもいると思うんですよ。それは否定しません。

ただ、そういうこととは何の関係もなく、ただ一人でいたい、コミュニケーションについて気にする必要がない時間が欲しい、一言で言えば放っておいて欲しい。そういう子も間違いなくいるんです。

「何も気にすることなく一人でいられる時間」というのも、心の成長には大事なものだと思うんですよね。もしかすると、そういう時間を得ようにも得られなくて、図書館を唯一の摂取源にしている子だっているのかも知れない。

前者の子に対するケアはそりゃ大事かも知れませんが、後者の子に対するケアはどうすればいいのかな、と。どちらかというとそれって、「適切に、安全に孤立出来る場所の提供」だと思うんですよ。で、図書館ってその為には結構絶好の空間なんじゃないいかなあと。

なんか、こういう話の時って「実際にはコミュニケーションに飢えているけれど結果的に孤立している子」にばかりスポットライトがいくような気がするんです。ただ、「そもそも学校でのコミュニケーションを望んでいない子」というのも世の中にはいるんじゃないかな、その子に無理やりコミュニケーションを取らせるのは正しいのかな、と思うんですよ。

そこから考えると、カフェはカフェで、図書館とはまた全然別の場所に作る方が、個人的にはしっくりきます。


繰り返しになりますが、冒頭リンクのような試みが悪いことだと言っている訳ではないんです。時間も限定されていますし、ここで書いたようなことなんて既に考慮されている可能性もあるでしょう。陽性のコミュニケーションが苦手な子に対する、記事からでは読み取れない工夫も色々とされているのかも知れません。例えば、実際にはにぎやかな場所と静かな場所が分離されていて、静かな場所は静かな場所としてちゃんと確保されている、みたいなこともあるのかも知れません。

ただ、この記事だけを読んで、「おっ、いい試みだな」と考え、単純にコピーする、図書館をどんどん「コミュニケ―ションの場」に変えていく。そういう動きをする時は、ちょっと立ち止まって考えて欲しいなあと。


一言で孤立っていっても、色んな孤立があるんじゃないでしょうか、と。

「安全に孤立出来る場所」は不要でしょうか、と。

新たなコミュニケーション空間が増えることによって、却って居場所を追われてしまう子もいるんじゃないでしょうか、と。

「コミュニケーションから離れたい」という欲求も勘案してあげてもいいんじゃないでしょうか、と。


その辺、ご検討いただけたらと思う次第です。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 08:03 | Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月14日

ところでイース8がめっちゃ面白いです

何度か書いているんですが、「今更」という言葉は不倒城では死語です。よろしくお願いします。


ということで、知人からイース8を布教いただきまして、最近始めてみました。めっちゃ面白いです、イース8。

イース自体は1の頃からファミコン版でやりまして、今でも定期的にイース1・2はやりたくなるんですよね。ファルコムさん、割とイース1・2については「これでもか」っていうくらいリメイクを出しているんですが、イース1・2の新作が出ると「あ、最近イース1・2買ってなかったな、そろそろ買っとくか…」みたいな謎のイース1・2購買欲が出てくるから不思議です。なんなんでしょうねアレ?習慣性物質でも含有されてるんでしょうか?

で、最近やったイースっていうと、イース7はそりゃもう面白かったんです。


イース7は、「滅茶苦茶な爽快感」という言葉で大体が表現出来ると思っていて、もう動かしてるだけですごい気持ちいい。キャラクターがびしゅっびしゅって動く。移動アクションがとにかく速くって、しかも習熟するごとにどんどんスムーズさを増していくんで、普通に街から街へ移動しているだけでも爽快感が得られるという、とんでもないアクション性の強みをもっていたんですね。

で、イース8なんですが、6時間程プレイした限りでは、「イース7の正当進化形」と言ってほぼ間違いないのではないかと。

6時間といってもまだゲームとしては全然序盤っぽいんですが、現時点で軽くレビューしてみたいと思います。

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システムはほぼイース7と同様で、3人入り乱れてのリアルタイムアクション。聖剣2や3がそのまま進化してたらこうなったんだろうな、と思わせるようなシステムです。

敵をバシュバシュ切っている時の気持ちよさ、SPを貯めてどかーーんと敵をまとめて吹っ飛ばす爽快感は健在、というかむしろパワーアップしています。とにかく、ばっさばっさと敵に切りつけていく軽いチャンバラ感覚と、敵の攻撃をかわす、ガードする時の楽しさが爽快過ぎる。素晴らしいの一言です。

ゲーム自体は決して簡単な訳じゃないんですが、敵の攻撃を見切ってギリギリのタイミングで回避すると「フラッシュムーブ」や「フラッシュガード」が発生しまして、攻撃モーションに慣れれば慣れる程どんどん楽になっていくので、「オレ上手くなってる!!!」的な達成感は非常に良質です。これは、近作のイースに共通のだいご味と言ってしまっていいのではないかと。


ストーリー面では、イース安定の「船に乗ってたら難破して冒険の舞台にたどり着く」という、もう感動的なまでにお約束の展開で、無人島なのに故郷に帰ってきたかのような安心感すら感じさせます。船長からセイレン島の話聞いた瞬間の、「ああ…」という納得感すごい。

まあ、イースに斬新で重厚なストーリーなんて誰も求めてないでしょうし、この辺りで完全に「安定」「お約束」に振るスタッフの匙加減は正しいのでしょう。

今回、無人島でのサバイバル的な要素も追加されていまして、難破した乗客を集めて村を作っていく要素があります。資源を集めて村の設備を充実させていったり、乗客たちの依頼を聞いて仲良くなっていくのもなかなか楽しい感じです。

流石に自由度という点では、最近プレイしたゼルダBotWなんかとは比べようがないってのは仕方ないところ。それでも、ゲームが進んでくると、「今日はどこを探索するかなー」という選択の余地はどんどん広くなっていきます。正直マップ広すぎて迷う。


あと、グラフィックめっちゃ綺麗です。


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イース7の頃も、私の感覚では十分綺麗だと思ったんですが、流石のPS VITAと言うべきか、PSPとはちょっと表現力が比べものになりません。どのキャラクターも表情豊か過ぎてすごい。

あと、なんか近年アドルがイケメンになり過ぎてませんか?

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アドルってこんなさわやかイケメンでしたっけ…なんかもうちょっと武骨なイメージもあったんですけど…。

あと、まだ序盤なんでキャラクター全然出そろっていないとは思うんですが、貴族の令嬢であるラクシャさんはとてもかわいいと思います。

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最序盤はかなりツン寄りのツンデレだったんですが、割とさっさと打ち解けます。チョロい感。いわゆるチョロイん。

「主人公のことをフルネームで呼ぶヒロインはチョロい」という法則がふと思い浮かんだんですが、今ぱっと浮かんだ類例は逆転裁判の狩魔冥くらいだったんで、もうちょっと研究を進めようと思います。あと誰がいましたっけ…

っていうか今回、序盤で「川で水浴びをしているラクシャを偶然覗いてしまうアドル」という、ラノベ感いっぱいの展開がありまして、イースにそういうのはどうかなーと最初思ったんですが、後から考えてみると何故かどんどん違和感が仕事しなくなっていきました。冷静に考えると、イースって昔からそんな感じだったような気もする…違いましたっけ?

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イース2なんかは、「女の子じゃなくて男の子が空から落ちてくる系導入」だったんで、意外性といえば意外性はあったんですが、まあ深く考えないことにします。

まあなんにしてもラクシャさんはかわいいです。あとサハドもいい味出してる。

とにかく、

・アクションの爽快感
・ゲームに習熟するごとにアクション自体が楽になっていく絶妙なバランス
・施設や装備を充実させていく楽しさ、収集要素
・めっちゃ綺麗なグラフィック、BGM

については、現時点で全く文句のつけようがないところ。

一方、不満という程のことでもないんですが、

・回避アクションはイース7くらい長い距離をビシュッと移動してくれてもよかった気がする
・マップがかなり入り組んでいて結構迷いやすい(ミニマップは親切なので解決は出来る)

くらいのところは感じました。これについてはもうちょっと進めてからまた評価しようと思います。

今のところ、パッケージキャラである青い髪の女の子がまだ夢の中にしか出てきていないので、今後もキャラクターは充実していくのだろうと思い、楽しみに進めてまいろうと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。








posted by しんざき at 23:00 | Comment(1) | レトロでもないゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

「俺の文章大好き」以上にブログを続ける理由が存在しない、という話

ところで皆知ってるかも知れませんが、私は自分の文章が大好きです。

私は文章を書くのが好きですが読むのも好きでして、特に好きなのは自分が書いた文章を読むことです。割と残念な記憶力を有しているので、書いてから三週間もしたら自分が何を書いたか忘れます。程よく忘れた頃に自分の文章を読むと、いい感じに新鮮な気持ちで、「いい…」とか「完成度…」とか呟きながらニヤニヤすることが出来ます。

私のブログを一番楽しんでいるのは間違いなく私ですし、私の文章を読むだけでも私にとっては十分な娯楽です。勿論、「自分が好きなものを皆にも見てもらいたい」とか、「この漫画もっと売れて欲しい」とか、「皆にメタルマックスを買わせたい」みたいな動機も私にはありますので、読む人がいて下さればそれに越したことはありませんが、モチベーションの基底にあるのは圧倒的に「自分の文章大好き」という自己満足です。

つまり、私のブログには、一人圧倒的な良読者が固定でついている、ということになります。私です。

だから、仮にこのブログを読む人が私一人であっても、私はブログを続けるでしょう。というか、始めて数年はそういう状況でした。おそらく、「ブログを続ける動機」という点では最強に近いものだと思っています。

ただこれ、本来は皆そうなんじゃねえかなーと思うし、そうなれるんじゃねえかなーと思うんですよね。

すごいむかーーし、こんなこと書いたんです。

ひとり語りは面白いのかどうか、について。

「自分が読む自分の文章」というものは基本的に名文なのである。

自分が自分で読む程には、自分の文章は面白くないのだ。

これ自体は、単なる文章を書く上での大原則という話でして、「自分で読む自分の文章というものは基本下駄を履いているものであって、他人が読んだ時にも面白いとは限らないよ」というだけの話なんですが。

ただこれって、裏返せば、「自分には、自分の文章を楽しむ圧倒的な素質がある」ってことでもあるんですよね。大体において、自分くらい、自分を楽しませる文章を書ける人ってのはいない筈なんですよ。書いた人のバックボーンがダイレクトに脳内に入ってくる!!なんてスリリングなんだ!!!!ってなもんですよね。

っていうか、皆さん自分の文章って名文だと思わないですか?大体、自分が書いた自分の文章って自分にとっては名文になるものなので、恥ずかしがらずにもっと自分の文章は名文だって認めていいと思うんですが。

客観的に自分の文章を評価する、というのは極めて難しいです。自分でおもしれえ!と思った文章でも、他人が同じように感じてくれる保証は全くありません。むしろ、同じように感じてくれることの方が極めて希少でしょう。

ただ、別にお金をもらって書いているわけでもなし、個人の趣味としてのブログなんだから、別に客観視なんてしなくていいんじゃねーか?とも私は思うんですよね。私は楽しんで書いてますし読んでますんで、皆さんは勝手に楽しむなりクソだなーと思うなりしてください、止めません、って話なんですよ。


ただ、そこに、「PVを稼ぐ」とか「お金を稼ぐ」という指標が入ってきて、しかもそれがメインになってきてしまうと、途端にブログって苦しくなるんですよね。

だってうまくいかないじゃないですか、そんなもん。ブログで稼ぎましょう!とか言いつつサロンで稼いでるような人、少なくとも個人のレベルでは片っ端からいなくなったでしょう?よく知らないですけど、今は仮想通貨でもやってるんじゃないですか、そういう人たち。

収益とかPVとか、客観的な指標ってのはまあ残酷なもので、追いかければ追いかける程うまくいかないし、情況としてはレッドオーシャンもいいところです。今から収益をおっかけて、ダシガラの中でちょっとでも残ってる煮干しを探す、みたいな行動は正直あんまり割りに合わないように思います。

ブログで稼ぐなんてやめちまおーぜ、とか思うんですよ。

だからこそ、今だからこそ、「俺の文章大好き」という、一番の基底モチベーションに立ち返った方が、色々上手くいく人も多いんじゃねえかなーと。

こちらの記事を拝読して、そんな風に思ったわけです。



ブログはボトルメールみたいなものなので、流してればその内誰かに届くでしょう。

ただ、誰かに届くかどうかは正直副次的な問題であって、まず自分に届くし、自分に届いた自分のボトルメールを貪るように楽しむという、そういう変態的な行為も案外楽しいですよと。

そんな感じです。


posted by しんざき at 22:17 | Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月12日

「チェイサー」の5巻がマジで面白い

超面白かったです。


いや、ゆーてもチェイサーは本誌に載ってる時は本誌買って全部読んでるので、話自体は把握してたんですが、やっぱ単行本という形でまとめて読むとまた格別だなあ、という話でして。

「チェイサー」自体については、下記記事で色々書いてるんでそちら参照してください。いや、今連載されてる色んな漫画の中でも、トップ3には余裕で入るくらい面白いと思うんですよ、チェイサー。


で、チェイサーは、勿論手塚治虫先生の同時代伝記とでもいうべき漫画であって、手塚先生の「チェイサー」である、同じく漫画家の海徳光一という人物を主人公としています。

チェイサーの面白さは、何と言っても「海徳先生が手塚先生を意識する時、「チェイス」する時のドタバタ感」という言葉に集約されると思うのですが、この5巻ではそこに重大な転機が訪れます。

つまり、少年漫画業界における手塚人気に陰りが出てしまい、一方海徳先生が「少年ジャンプ」で大ヒットし、作中の少年漫画人気では手塚先生を越えてしまうのです。

作中でも語られることですが、手塚先生には、一時期少年漫画業界での人気が低迷していたことがあります。1960年代後半から1970年代の前半、作風が厭世的になった頃ですね。

で、5巻の大筋はこの時期の話なんですが、海徳先生の方は、ちょうどこの時期に「俺のドラゴンボウル」というボーリング漫画を「ジャンプ」で描いて、これを大ヒットさせてしまいます。劇中、日本にボーリングブームを巻き起こした人物として、海徳先生は一躍時の人に。この辺り、実際にあったボーリングブームと絡めてくるあたりが、コージィ先生つくづく上手いですよね。

勿論この時期、手塚先生は「火の鳥」「奇子」「きりひと賛歌」なども同時並行で著していたわけであって、青年漫画の世界ではまだまだ物凄い存在だった訳なんですが、少なくとも少年漫画というフィールドでは、海徳先生は手塚治虫に完全に「勝って」しまう。

ところが、海徳先生の手塚コンプレックスは、解消されるどころか、うっかりすると更に悪化してしまうわけです。

元々手塚先生のインテリジェンスに憧れていたところのある海徳先生は、「おれのドラゴンボウル」が徹底して子ども向けの、いってみれば「おバカ」な漫画であることにコンプレックスを持ちます。「火の鳥」や「きりひと賛歌」を見て、「俺はこんなおバカなことを書いていていいのか!?」と葛藤しちゃうわけです。


この辺の葛藤の描写が、また上手いし超面白いんですよ。


この巻では、5巻におけるもう一人のメインキャラともいえる、ジャンプの編集者である日下(ひげ)氏が活躍します。彼のスタンスは単純明快。「少年漫画はインパクトと分かりやすさがなにより重要」「少年漫画で人気出たヤツが漫画業界で一番偉い」というのが彼の持論であって、時々ブレそうになる海徳先生を強引に引き戻すのは彼の手腕です。手塚先生のインテリジェンスに憧れて、「俺も少しはそういうのを描くべきなんじゃ!?」と迷う海徳先生を、「そっちにいかないでください!!」と無理やり引き戻すドタバタは素晴らしいとしか言いようがありません。「手塚賞」がジャンプに導入された時のやり取りなんかはもうニヤニヤが止まりませんでした。

日下氏は、「少年漫画にインテリジェンスなんて導入したら子ども読者を逃がすだけ」という思考で一貫しているんですよね。で、「俺のドラゴンボウル」が大人気なんで、彼としては何としてもそこを外したくない。あの手この手で海徳先生をおだてつつ、フラフラとインテリジェンスを追い始めようとする海徳先生を強引に引っ張り戻すわけです。


日下氏の、「「子どもっぽい」ことから逃げないでください!!」というのは、作中でもトップクラスの名言だと思います。


大体海徳先生、手塚治虫を意識するあまり、うっかりすると自作以上に手塚作品の方が気になっちゃうんですよね。一躍時の人となってしまった自作の人気に戸惑いつつ、むしろ「手塚治虫の凋落」という事象の方にショックを受ける海徳先生のキャラクターは、やはり今作最大の味です。俺のドラゴンボウル読みたい。


この辺、「少年漫画というフィールドでは手塚先生を凌いでしまった」海徳先生の戸惑いと葛藤、あと日下氏とのやり取りや日下氏の強引なフォローや路線誘導が、チェイサー5巻のハイライトであることは論を俟たないでしょう。日下氏という、一本筋の通った考え方というか、物差しが提示されるからこそ、海徳先生の葛藤や逡巡が余計に際立つんですよね。


で、5巻も終盤、「俺のドラゴンボウル」の人気にも陰りが見えてきた頃。手塚治虫はすっかり少年漫画業界での立場を凋落させてしまい、どの雑誌も手塚漫画を載せたがらない、というところまで来てしまいます。本質的には単なる手塚ファンである海徳先生すら、「少年漫画で生き恥をさらさないで青年漫画に集中してくれ」と言うくらいです。

さすがに海徳先生も、ぼちぼち「少年漫画では俺の方が上」という自信を持った時に、こんな話が伝わってきます。

「手塚先生がチャンピオンで連載を始めるらしい」
「チャンピオンの編集長が、「手塚の死に水は俺がとる」と言っている」

はい、この辺が、伝記ものの一番面白いところですよね。我々は、この後、チャンピオンに何が載るのかを知っている。

そう、「ブラック・ジャック」がついにその姿を現すのです。


というところで、5巻はここまで。いやーー面白い。面白いですチェイサー。展開もさることながら、単行本の引きのタイミングも絶妙。

取りあえず皆さん、「チェイサー」はまだ5巻しか出てませんし、読んでない人はちょっと騙されたと思って読んでみませんか?手塚治虫先生の伝記として読んでも、海徳先生という漫画家の出世物語として読んでも、ドタバタ感がすげー楽しめますよ。






気が向いた方は是非どうぞ。画像つけたいから貼ってますが、別に上のリンクから買わなくていいんで。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:25 | Comment(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月09日

今そこにあるネット私刑、あるいはネタさえあれば私刑を執行したい人たち

こんな案件を観測しました。今方々で話題になっている、振袖業者の話です。


ひどい話ですよね。人生一度の成人式の日にこんな案件に巻き込まれてしまった新成人の皆さまは心底お気の毒だと思いますし、状況から見てもある程度計画的な倒産だった可能性は高そうです。

一方で、同じ「はれのひ」でも店舗によっては、社長に連絡がつかず、給与も遅配する中で新成人の皆さまのフォローを精一杯行ったスタッフの方もいらっしゃったようで、こういった現場を支えたスタッフに対しては、賞賛の念を禁じえません。偉いなーと思います。


何にせよ、これが詐欺案件に該当する可能性はかなり高そうであって、民事ないし刑事案件になって速やかに法的措置が取られ、被害者が適切な補償を受けられることを願って止みません。


ただ、それとは別に、「またかよ」と思った案件がありまして。


はてブで件の振袖業者の社長名について、facebookのエントリーをピックアップする記事を見かけました。

それを見て、ふと思いついて社長名をぐぐってみると、まあ出るわ出るわ。

「〇〇の顔画像や経歴は?」
「現在の居場所を特定!」
「〇〇の嫁・子どもについて」
「〇〇の住所や顔画像を特定!」
(〇〇は社長名)

みたいなタイトルの記事がずらっと。アクセス流したくないんでリンクは貼りませんが。

これ、明らかにネット私刑ですよね?

百歩譲って、当該社長が自分で公開しているfacebookの情報をピックアップするだけなら(既にネットに公開されている情報なので)まだわかるんですが、何の関係もない家族や、家族が巻き込まれかねない現住所に関して、悪意満々の論調でWebに公開することが、私刑以外のなんなんだって話なんです。


以前こんなことを書きました。


まず、

「無関係だろうがそうでなかろうが、私人が事件の容疑者や身内に私刑を行うのは犯罪」

ですよね?ここブレちゃいけないですよね?

これ、そもそも嫌がらせの電話を受けているのは、事件の容疑者と何の関係もない企業なので、それはそれでひど過ぎる話なんですけれど、「たとえこれが本当に容疑者の関係者だったとしても、あるいは容疑者本人であったとしても、個人情報を晒したり、嫌がらせの電話をしたりするのは犯罪以外の何者でもない」というのは当然の認識としてみんなが持っておかないといけないと思うんですよ。
「件の振袖業者の社長の住所」と称されるものが、本当に誤爆でなくて本人の住所だとすら現時点では全く判断出来ないと思っていて、その点もし誤爆だったらまた新しいスマイリーキクチ事件が起きることについて誰が責任とるんだ、とも勿論思うんです。

今更いちいち言うまでもなく、webに一度拡散された情報を消去することは極めて困難というか、大抵の場合不可能です。仮にデマだった場合には、勿論なんの関係もない人の住所が大量の人に拡散されて、「この犯罪者!!」という罵倒が、何も罪を犯していない一般人に投げつけられることになるのでしょう。これを理不尽と言わないでなんていうの、という話です。


ただ、仮に誤爆でなかったとして、「私人が特定個人の個人情報を晒すのは私刑以外の何ものでもない、単なる犯罪」だということを、しつこかろうが何だろうが、我々は確認しておかなくてはいけないと思うんですよ。

日本は法治国家であって、罪を犯した人間がいたとしたら、きちんと法に基づいて裁かれなくてはいけません。その為にはちゃんとしたプロセスもあれば時間も要ります。そういうのを全部吹っ飛ばして、「俺たちで叩こうぜ!!」とかやり始める向きを、私は醜悪だとしか感じません。

仮に何か情報提供をしたいことがあるのならば、それは少なくとも警察に対してするべきであって、ネットで不特定多数にさらすことで発生するメリットなんて何一つ、本当に何一つありません。

結局のところ、こういう人たちって、「叩きやすい対象」が出てきたタイミングで、「ほれきた!」と私刑を煽っているようにしか、私には見えないんですよ。


なんなんでしょうね、この、「燃やしやすい藁人形」を発見したとたんに、わーーーっと集まってきて「さあ皆叩け!!」って煽り始める光景。これものすっげえグロテスクだと思うんですが。

「嫁・子どもについて」なんて、もう明々白々に、「一族郎党まで迫害しろ」っていう意思表示以外の何者でもないじゃないですか。本人に対する私刑だって単なる犯罪ですが、例えば罪もない子息の情報を晒そうとすることに、一体どんな正当性があるっていうんでしょうか?それで自宅にじゃんじゃん電話がかかって、家庭の1個も崩壊すればそれで私刑をする人たちは満足なんでしょうか。


この、「たくさんの人の憤り」を利用して広告収入を稼ごうとする手法、なんとか滅びてくれないかなーと思うばかりなんですが。

せめてネット私刑だという指摘だけでもしておきたいと思って、本日記事を書いた次第です。

悪質な計画倒産案件や詐欺案件が減少するのと同じくらいに、ネット私刑が減少することを願って止みません。


今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:32 | Comment(7) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月07日

今日のしんざきがゆるドミに行ってきたんですが「文絵のために」がやたら面白かったです 18/01/07

皆さんお疲れ様でした。


いやー今回も楽しかったですね。

今回はがっつり朝開催だったので、一日楽しくドミったり色々他のゲームをやらせて頂いたりしたわけでして、スイスドローの結果についてはまた改めてゆるドミ告知ブログの方でも書こうと思うわけなんですが。

一点、今回プレイさせていただいた「文絵のために」がやたら面白かった、というかシステムのすばらしさに軽く感動したのでちょっと紹介してみます。



いやこれですね、ゲーム開始当初は全く勝利条件も分からないし敗北条件も分からないんです。

「文絵のために」は二人でプレイする協力ゲームでして、三つのシナリオがあります。第一のシナリオ「文絵のために」はヒロインの文絵の死を避けるために主人公が奔走するループもの、という程度の事前知識はあったんですが、どんなゲームなのかはよくわかりませんでした。

で、このゲーム、プレイする二人がお互いに「相手の手札」をもって、その手札を順番に渡していくんですね。で、その手札を使用するか、それとも裏向きにして握りつぶすかは各々のプレイヤーの判断に任される。この時、カードの中身や使用判断については、お互い話し合ってはいけないんです。

で、上で書いた通り、ゲーム開始当初は何をすればいいかよくわからない。色んなカードを使うと何が起きるかを確認しながら、本当に二人で手探りで、ゲームの敗北条件、勝利条件を推理していかなくてはいけないんです。

文絵のためにすげえ面白かった

この加減が本当にものすっごい。「ループものアドベンチャーゲームのプレイ感」みたいなものが完全再現されてまして、一つ一つ、「これはフラグなのか?」「このフラグを立てるとどうなるんだ?」「このフラグは立てていいのか?」みたいなことを推理していくんです。

で、一回で文絵を助けられることってのはまずなくって、最初の内は大体失敗する。1ゲームは短くって、慣れるとせいぜい10~20分くらいで終わります。何度も失敗しながら、少しずつゲームの勝利条件を手探りしていく感覚が、まさにループものアドベンチャーゲーム。

ループものをアナログゲームで再現したゲームっていうと、他に「惨劇ルーパー」が思いつきますが、「文絵のために」はルール的にはずっとシンプルです。その代わり、一通りフラグの正体が分かってしまうと若干感動が薄れてしまう、という問題はあります。とはいえシナリオは三つありますし、何よりこれだけシンプルなルールでループAVGが再現できるのか…という感動がすごいので、これは一度味わってみられても良いのではないかと思います。

とにかく、ゲームを進めていくうちに分かっていく「そういうことだったのか!」感、また色んなループAVGのお約束をきちんと押さえている「分かっている感」は一見の価値あり。協力ゲーなんで、対戦ゲーが苦手な方にもおすすめ出来るかも知れません。ただ、アドベンチャーゲームについての最低限の経験はあった方が楽しめるかも。


その他、今回もしんざき長男が混ぜて頂いて色々遊んでいたんですが、なんか「テストプレイなんてしてないよ!」がやたら気に入ったようで、プレイしながらぴょんぴょんはしゃいでました。


ただこっちは私自分でプレイしてないんでちょっとコメントできません…横で見ている限りでは理不尽ゲーのような気がしたんですが、パーティゲーム的に盛り上がるゲームなんでしょうか。


まあなにはともあれ、今回も楽しかったですしまたやると思いますので、皆さんまた遊んでください。

今日書きたいことはそれくらいです。





posted by しんざき at 23:46 | Comment(0) | アナログゲームいろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

webは結局権威主義へと帰着するのかも知れない

思考メモ。特に建設的な結論に着地するような記事ではないです。

こんな記事を読みました。

今の時代情報強者になるのはとても難しいと思った話(ダイエット編
いや、もう検索エンジンをどう使おうが正しい情報にリーチすんの難しすぎない?って話。

正直なところ、ここで書かれていることは大筋正しいと思っており、Googleの検索結果は現状、かなりの範囲においてひどいことになっています。

どの検索ワードでもこの検索ワードでも、

・何の根拠もないライフハックもどき
・どっかからのコピペつぎはぎ
・ワードサラダ的な意味が薄い記事
・twitterから適当に拾い集めたツイートまとめ

などが上位検索結果に目白押し。Googleがハックされ過ぎていて、広告目当て、PV目当ての大量生産記事が大氾濫しているというのは、既に今更の話でもあります。

そして、ぐぐってトップに出てくる無根拠な情報を、これまた無根拠に信用してよろしくないことになる人、というのもしばしば観測出来ます。医療のアレとかデマ関連のソレとか、まあ色々思い浮かべて頂けるかと。

かつては「ググレカス」と呼ばれていたところが、「ぐぐったら情弱」と呼ばれる日はすぐそこに見えている、というか正直そういう時代に既に片足突っ込んでいると思います。

勿論希望が全くないかといえばそういう訳でもなく、例えばGoogleは先日医療や健康に関連する検索結果を改善したことについて発表しまして、こういう動きがバンバン続いてくれればまだ状況は改善するかも知れません。ただ、残念ながら現時点では、大きく状況は変わっていないと言わざるを得ません。

こういう時代、重要なテーマに対して適切な情報を手に入れる為にはどうするべきかというと、多分現実的な方向性は大きく二つあって、

・Web以外に情報の裏付けを行うことが出来るアナログなノウハウを身に着ける
・信頼出来る個人や組織をフォローして、彼らが発信する情報を信用する

のどちらかになりそうなんですよね。

アナログなノウハウは、多分それはそれで重要だと思うんです。玉石混交って言えばアナログな書籍だって新聞だってそりゃ玉石混交ですが、世の中程度の差というものがあります。書籍は少なくともほぼ必ず編集者の手を経ていることは保証されている訳であって、玉石の混在率に関しては、少なくとも現時点のWebよりは遥かにマシです。「この出版社はヤバい」「この出版社はまあ安心」という見分けも、webよりはだいぶ難易度低いでしょう。

こういった、「Webだけに頼らない情報収集のやり方」については、どこかできちんと練習するべきだし、私自身ちゃんと子どもに教えてあげたいなーと思って、機会あるごとに一緒に図書館いって調べものしたりしてるわけですが。

ただ、そうは言っても時代の流れというもので、アナログなサーチ手段についても恐らくいつかは限界が来ます。そうなると、「信頼出来る組織・人」に情報の保証を求めるというのが、恐らく一番現実的な落としどころにならざるを得ないと思うんですよ。

例えば医療の情報について言えば、現時点で厚生省が発信している情報はほぼほぼ妥当でしょうし、信頼出来る医療機関、信頼出来る医師が出している情報をキャッチすることも可能でしょう。

「この人のいうことはまあ信用出来る」「この組織の書くことはまあ信用出来る」という形で、キュレーションを誰か、何かに仮託しつつ情報のフィルタリングをする、というのが、まずまあ妥当な落としどころなのかも知れません。


で、ここからがあんまり建設的でないくねくねした話なんですが。

「人」「組織」に信用を求めてそれをフォローするって、それ多分権威主義の入り口だよなー、ということが、私の頭からはどうも離れないのです。

勿論盲従する必要はないとはいえ、「この人のいうことは信用出来る」という、いってみれば「人」に対する説得力の仮託というものから、恐らく権威主義というものは始まったんじゃないかなあ、と。それって多分、かつて我々が、いや少なくとも私を含むWebの一部の人たちが、Webに求めたものからはかけ離れた形だよなあ、と。

かつて、権威主義を否定する夢をWebに託した人たちが、巡り巡って結局権威主義に帰りつくのか。


「誰もが同じ立場で価値ある情報を発信出来るweb」という一つの理想は、失墜したままもう戻ることはないのかな、と、一抹の寂しさを覚えるのです。

まあ、今は、Googleが検索結果の健全化をガンガン進めてくれることに期待しつつ、ゲーム系迷惑サイトとかNA某まとめとかできれば消滅してくれないかなーと神社に手を合わせるだけの日々なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。


posted by しんざき at 07:28 | Comment(6) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

漢文学習がどんな役に立つのか、なるべく簡単に解説してみます

こんな記事を読みました。


日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか

何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。

おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。(中略)「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。

それでも、それでも、それでも、

やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。


えーと、この人の言いたいことを簡単にまとめると、

・古文・漢文というのは暗記ゲームであって、伝統や教養以上の実学的な意味はない
・そんな科目を受験の科目に含めるのは不適当ではないのか

ということだと思います。

これは多分、「古文や漢文って何の役に立つの?」という、よくある疑問に還元出来るのだろうなーと考えます。


そもそもの前提として、「役に立つ/立たない」という軸を勉強する意義に求めることは適当か、という話は勿論あります。

知識は、それを身に着けることそれ自体に意義がある、役立つ役立たないなんて関係ない…そういう人はいますし、そういう姿勢は正しい、尊いものだと思います。

ただ、それを承知の上でも、我々は一度は、きちんと「役立つ/役立たない」という土俵に乗ってあげないといけないと思うんですよ。

以前、こんなことを書きました。

「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す

大体において、小中高で勉強する科目なんて、殆どが「実際にめっちゃ役立ちますよ」という科目ばっかりなんですよ。それは、トレーニングとして役立つということでもありますし、実際社会に出てからめっちゃ使う、というものもあります。それをきちんと言葉にして伝えることは、大人の義務でもあると思うんです。

ということでこの記事では、古文漢文の中でも特に漢文に絞って、「何故漢文学習が必要なのか」ということを書ければと思います。


1.漢文学習はどんな役に立つのか

最初に結論から書いてしまうと、漢文というのは

「伝統や教養を身に着けるついでに、論理読解力の経験がめっちゃ積めるという超お得科目」

です。

教養というものはそれ自体確かに重要であって、しかも更なる教養にアクセス出来るスキルを身に着けることはとてもとても重要です。漢文は、それ自体「次の教養へのアクセスポイント」であり得ます。唐詩選とか十八史略とか、教養抜きにしてもめっちゃ面白いですよね。孫子とか韓非子とか原文で読めるんですよ?超面白くないですか?


けどですね、漢文って決して「教養」だけのツールではなくて、実際にドすげえ教育効果を持っているんですよ。

それは、「極めて短いスパンで、物凄い効率的に「言葉の繋がり」を追っていく練習を積めること」。一種の「読解力ドーピングツール」なんです。この点についてだけ言えば、漢文は明らかに現代文よりも効率がいいと思います。

例えばですね、何がいいかな。論語にしましょうか。


不患人之不己知。患不知人也。


すげえシンプルな一文ですよね。人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり、って読むんですけど。

これだけでも、このたった二行だけでも、「どの言葉とどの言葉が繋がっているのか」「どの字がどの字にかかっているのか」をすごーくちゃんと読まないと読めない、ってこと、分かって頂けるでしょうか?


この「不」って字はどの字にかかるんだ?

「患」は動詞っぽいけど、主語は誰なんだ?

不己知ってのはどういう順番で読むんだ?何を知ってるんだ?何を知らないんだ?



これですね、漢文ってすごい情報の密度が高くって、いちいちきちんと「言葉の繋がり」を考えないと、ぜーーったい文章全体の意味を読み解けないようになっているんです。どの言葉がどこにかかっているのか、細かいレベルまで全部必要になる。

その割に中高くらいのレベルだと凄くロジカルで構造的に堅牢な文章しか問題に出ないし、言ってること自体はシンプルで類推が容易なんで、コツさえわかってくればパッパとロジカルに読めるようになる。ちゃんと慣れることが出来れば、冗談抜きで論語なんて白文で全部すらすら読めるようになります。

この学習効果、結構物凄いと思いますよ。「文章の論理構造を読み解く」って、読解の基本じゃないですか?現代文どころか、英語でも、数学でも、社会でも、理科でも、他のどんな分野でも使っていくスキルですよね。それをすごーーく短いスパンで、ものすごい密度で反復練習出来るんです。

当たり前のことですが、難しいことをするには訓練が必要です。ややこしい言葉を読み解くには、論理構造を読み解く経験値を積まなくてはいけません。その点、「言ってることは簡単なのに、ちゃんと論理構造を読み解く訓練にはなる」のが漢文です。

つまり漢文って、「超短期読解力養成ギプス」として使えるんです。漢文が分かるってことは、イコール「言葉と言葉の繋がりについてきちんと理解している」ってことと同義、と言えるんです。



同じ勉強するなら、学習効率がいい科目をどんどん勉強していくべきですよね?

だから、科目としては本来すごーく重要だと思いますよ、漢文。教養にもなるし読解力のドーピングも出来る。超お得セットだと思いません?


漢文勉強することの直接的なメリットって他にもありまして、

・中国語がかなりの精度で普通に読めるようになる
・熟語の構造が分かって、難しい熟語の意味が推測しやすくなったり、類語や対義語が覚えやすくなる
・日本の古めの言語もある程度スムーズに理解できるようになる

この辺はかなり大きなメリットだと思います。特に3点目とか、法学部なら普通に昔の判例とか、法律文書読むのに使ったりするんじゃないですかね?法律文書なんてただでさえややこしい文章多いし、他の学部ならともかく、法学部だったら普通に漢文馴染むと思うんですが…。

あと、例えば「将来」みたいな熟語について、ああ、これは将に来らんとすの意味だな、みたいなことがナチュラルに分かって内心ドヤァ出来ます。


2.漢文学習の不幸な誤解

ただですね、冒頭増田も不幸な誤解をしてると思うんですけど、世の中、漢文のことを「暗記科目」って思ってる人って何故かすごい多いんですよね。これ、不幸なことだなーと。

確かに、漢文って読めるようになるまでに覚えたほうがいいことってありますよ。句法とか句形とか、不読文字とか特定語彙の解釈とか、まあある程度はですね。

悪いことに、中高程度の漢文だったら、暗記だけでかなりのレベルまで点とれちゃうんですよね。だから、学校教育も、「受験対策としての暗記漢文」みたいな感じになりがちなんだと思うんですけど。

レ点がどうとか一二点がどうとか、本来些末なことっていうか、漢文それ自体に必要なルールじゃないんですけどね。本来は、例えば簡単な白文から見ていって、「なんとなくこういう意味」「なんとなくこういう繋がり」みたいなところから、漢文っていう言語体系、漢文を読む楽しさを徐々に学んでいく、みたいなやり方の方がいいと思うんです。

実際、私が塾で「漢文さっぱり分からん」っていう子を相手する時は、「一回今まで授業でやってたルールは全部忘れよう」って言って、「なんとなく言葉のつながりを想像しながら白文を見ていく」ところから始めていました。それでしばらくすると「あ、漢文って案外難しくないじゃん」ってわかってくれた生徒も割といるんで、時間さえあればそっちの方がいいと思うんですよ。まあ、実際のカリキュラムではそうもいかないんだということは分かるんですが。

あと、「これ三国志に実際出てくる文章だよ!!正史だけど!!!」みたいな授業も、三国志好きな子には結構盛り上がりましたねえ。楽しみながら勉強できるといいんですけどね。

おそらく、冒頭の増田も、「ひたすら暗記する漢文勉強」しかさせてもらえなかったんじゃないかなー、と勝手に想像します。そういう教育自体には、改善の余地なしとは言いません。

ただ、「漢文は不要か必要か」って話に限っていえば、私は「明らかに必要」だと思います。だって効率いいもん。教養にもなるし。



まあ、なにはともあれ、私が言いたいことを簡単にまとめると

・漢文は教養になるうえに読解力のドーピングが出来るお得ツール
・読解力は全科目で重要なので、漢文の学習価値も割とハイレベルだと思う
・その他のメリットも割とある
・けど学校での学習形態には改善の余地もあるかもね

くらいになります。よろしくお願いします。


あ、古文についても色々似たようなことは言えるんですが、まああまりに長くなるので今回はこれくらいにしておきます。

今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 22:25 | Comment(17) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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