「だまされていたけど、真実に目覚めた私」と言う自分語りをレポートの技術として使う、というのは、少なくとも私にはないし、私が受けた論文指導にもない。
もう一つ、「憤りを感じる」というテンプレも、私が受けた論文指導からはあり得ない。
もっともだと思うのだが、私が言及した「受験テクとしての論文の書き方」は、Wallersteinさんが想定している「論文の書き方」とはおそらく根本的に異なっていると思う。もうちょっと具体的に書いてみよう。
要は予備校での小論対策で何を教えているか、というのが問題。まあ、私が10年前くらいに受けた講義や、その後の4,5年で時折触れていた講義のレベルが低かっただけなのかも知れんが、一応アレ大手予備校なんだよなあ。
まあ「論理的な整合性」とか「独創性」なんてものは当然出てくる前提として。ちょっとうろ覚えだが、テクニック的なものというと、
・「90分で綺麗にまとめる」ことを最優先とする。その為、学生に幾つか「書きやすい類型」みたいなものを用意させておく
・客観的な議論だけで終わらず、自分の主張を結論として明確に出す。その為、感情的な部分はふくらませて書く様にする
・問題文があった場合、その主張をくみとる。かつ、主張がくみとれたことを採点者に知らせる為、主張の内容は明確に記述する。
こんなことを言っておった。特に二つ目、要は「主張と言っても、時間内に客観的主張をまとめるのは君らには難しいだろうから、多少感情的な論調でもとにかくおおげさに書いとけ」みたいなニュアンスだったのだな。テクニックとしての有用性に関しては賛否両論あるだろうが、そこの部分には当時も「はーー?」と思った覚えがある。
これが一般的な小論対策だったのかどうかは正直よく分からん。最近はどうなのか、という点もよく分からん。ただ、マイナーな予備校のマイナーな講義でなかったことは確かである。
私が通っていた大学でも、受験論文が染み付いた学生の書くレポートは、教授には不評だった。ただこれって、「大学論文と受験論文のずれ」というだけの問題じゃなく、結構色んな場所で顕在化し得るずれの様にも思うのだな。少数派多数派という意味では、件の学生さんが書く様な文章の方が多数派なんじゃあるまいか(良し悪しの問題ではなく)。
こちらの話はまたいずれ。





