2008年03月31日

「遊び」に古いも新しいもないと思うのですよ。

遊ぶ側は子供から大人になるかも知れないけれど、鬼ごっこは百年経っても鬼ごっこだし、テトリスは30年後もテトリスのままだろう。表面が多少変わったとしても、多分中核にあるものはあんまり変わらない。


子供の頃の気分になれなかったとしても、それを遊びのせいにしてはいけない。子供の頃の気分になれないことを嘆く暇があるなら、子供の頃の気分で楽しむ方法を探した方がずっと建設的だ。


「最近のゲームがつまらない」? 自分にあったゲームを探せていないだけじゃない?
「最近のゲームがつまらない」と言ってしまう人問題 - ARTIFACT@ハテナ系


この辺りを読んで、思ったこと。まとまってないけど。


私はレトロゲーマーである。私の自宅では未だにファミコンやスーパーファミコンの実機が稼動するし、どういう訳か一度も電池を交換していない筈の初代「三国志」のデータが未だに生きているし、最近ディスクシステムのドライブが昇天した。


私はレトロゲーマーである。私は昔のゲームを好き好んで遊んでいるが、自分では「懐古」というつもりは特段、ない。何でか。私の中では、レトロゲームはそもそも「思い出」ではないからだ。私は客観的に見れば懐古厨なのかも知れないが、ファミコンやX68000のゲームは私にとって「懐古」の対象ではない。「今、そこにある遊び」として、私は今でもマッピーを、ハイドライドスペシャルを、奇々怪界を、イメージファイトを遊んでいる。


私はレトロゲーマーである。私は昔のゲームを好き好んで遊んでいるが、今のゲームも割と好き好んで遊んでいる。塊魂を遊ぶ。エースコンバット5を遊ぶ。ディスガイアを遊ぶ。レイトン教授を遊ぶ。世界樹の迷宮を遊ぶ。どれもこれも面白くって仕方なく、そして私の中にはレトロゲームとこれらのゲームの境はない。そこには、多少外面が違うだけの「今、そこにある遊び」が並んでいる。それだけである。


ゲームを語る時に、「最近のゲーム」と「昔のゲーム」に差をつけて語る必要はあるんだろうか。どっちも同じ遊びじゃないか。
いつの時代も、ゲームには罪も功績もなく、ただ「自分にとって面白いかどうか」という一軸があるだけである。


つまらない理由じゃなくて、面白いゲーム探そうぜ。いつのゲームでもいいからさ。
posted by しんざき at 23:47| Comment(6) | TrackBack(1) | レトロでもないゲーム

2008年03月29日

今日のしんざきとリメイク話のフォローとか 08/03/30


引越し無事かんりょー。今回は珍しく、ネット環境もすんなり復活しました。息子さんは床を凄い勢いではいはいしながら新居の探検に余念がないですよ。ダンボールが全て片付くのには半年くらい余裕でかかりそうだけど。

で、ふとアクセス解析を見てみたら前回の記事を色んなところで取り上げて頂いていてガクブルしてたり。エントリーに評判を頂いたら、ビビってほとぼりが冷めるまで次のエントリーを書かないのが泡沫ブログであり続けるコツだ!!

で、プチ炎上気分を楽しんでいたんですが、幾つかフォローなど。


・企画とかシナリオ製作といった部分は丸ごと省略出来るんだから、完全新作よりは楽なんじゃないの?という反応について。

どうなんでしょ。

前回の記事はご指摘の通り、実際にコード書く人視点に偏っているとは思います。ただ、コード以前の部分についての工数比率は、ゲーム自体のジャンルや作り方、開発体制などによって当然大幅に異なってくる筈ですので、まあ一概にはいえないんじゃないかと思います。

記事中で触れた、
・ソースの再利用の困難
・差異の克服の難しさ

といったハンデを考えると、楽って言う程楽じゃないだろう、という意見には変わりありません。むしろ、「楽だと思ってスケジューリングされるとエラいことになると思うよ」という点の方がキモだと思って頂けると。


その上で、頂いたコメントについて、コメント欄でレスするのは無理がありそうなので、気になった分についてこちらでレスしてみます。

>NOBIEさん
>よくよく考えれば今のハードへの移植なんざ相当の苦行なんじゃねーの?

少なくともプログラマー的には、多分そうなんじゃないかなあと思います。

>tttさん
>新規のゲームの案件シナリオを考える事が出来ないで
>安易に売れるリメイクばっかり作ってて

ぼちぼち安易に売れる土壌じゃなくなってきたんじゃないか、という気はします。

>名無しさん
>とはいえ、叩けるほど古い時代の石ならエミュレーションでどうとでもなる気もする。

又聞きですけど、「エミュでベタ移植なんか売れない」という意識の営業さんもいる、とか。何か付加価値をつけないといけない、という意識が根強いってことなんですかね。

>さらにシナリオにかかる時間やゲームバランスにかかる時間。
>再度聞きますが、新たな作品をつくるのとリメイク作品を作るので企画段階も含めてリメイクのほうが手間がかかると言えますか?

どうでしょ。上に書いた通り、タイトルやジャンル、開発体制などによるんじゃないかと思います。
バランス調整は最近の作品、本当大変そうですねー。ベタ移植でなければリメイク作品でも十分手間だと思うけど。

RPG以外でのシナリオ製作の工数ってどんなもんなんですかね?

>32bitプログラムの「64bit版が必要なんだけど」とか営業に言われた。

うわあ。


>愚痴にしか見えん、お偉いさんや営業さんは、「一度作ったヤツだし、コピペみたいなもんでしょ?なんとか来週間に合わないかなあ」と思いこんどいたほうが仕事がやりやすいからそう思うことにしてるんだと思いますよ。

私自身は弾き返したから愚痴ってはいないですよ!いないですよ!
っていうか、そう思うことにしないで欲しいなあ。

>TKOさん
>リメイク前の作品は人気がある、つまりは元々それなりに良くできたソフトなのでそれを超えるとなると中々難しい。

それはホントその通りですよね。
あんまり関係ないですが、メタルマックスリターンズは結構好きでした。


>ナーシャが誰にも解けないコード書いたからか

凄い人だったらしいですね。バグも凄かったらしいけど。

>少し勘違いしてないかい?
>リメイクで楽するなっていう旧作ファンの声はプログラマに向けられたものじゃない

あー、私の前回エントリも別に、旧作ファンに向けたものじゃなかったりするんですが。


>大丈夫、貴方の苦労を理解出来る人間もいます。貴方は貴方の出来ることをがんばって下さい。

ありがとうございます。頑張ります。いや、私が今やってるのは金融畑の色々ですが。


>ただはしさん
>過去に書いたソースを見直すほど苦痛なものはありません><

いやもう、おっしゃる通りというか、頼むから別人の書いたソースであって欲しい、とか思いますよね。
最近は頑張って再読性を上げようとしてるんですが、切羽詰るとやっぱりなかなか。


>一番使いまわせそうなのは、パチンコとかスロットな気がします。

あー、あの辺のコードって何が書かれてるんでしょう。調べてみると面白そうだなあ。


>ただそれはプログラマーの視点の話ですよね。

そうですね。


>技術者は営業の無理な要求にどうにかして応えるのも仕事でしょ。
>文句を言ったり、その苦労を知れというのはおかしいのじゃないかな。

あー、もしあなたが技術者さんなら、今付き合っていらっしゃるいい営業さんを大事にしてくださいね。その考え方のまま、あまりよろしくない営業さんに巡り合うと死ねると思います。

>私はむしろ営業サイドにはこっちの苦労は知ってほしく無いし、
>知られてしまうと営業サイドは仕事がやりにくいでしょ。

どうなんでしょ。有能な営業さんの中には、技術のことも分かっていて必要十分な依頼が出来る人もいるかも知れません。


>「たとえ実際には三ヶ月かかるとしても、三日分の御代じゃなきゃ売れないよう」
>というのであれば、それはそもそも営業さんが推すべき商品じゃないんです。

金言ですね。
posted by しんざき at 23:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月26日

「リメイクものは作るの楽で美味しい」とかいう誤解が未だにどっかに残留してるんじゃないか?

以下はうちの会社の偉い人と私の、本当にあった怖い会話。

「ねーねーしんざきさん」

「はい?」

「これってさあ、今のシステムでもう一度つけらんない?(3年くらい前の別システムで実装されていた機能を指す)」

「へ。いやまあ、ちゃんと設計引き直せば、出来ないことはないですが(プチ修羅場のこの状況で何を言い出すんだこのオヤジは)」

「じゃあ、来週の役会で発表したいんで。何日で出来る?」

「は?(;゚д゚)」

「一度作ったヤツだし、コピペみたいなもんでしょ?なんとか来週間に合わないかなあ」

寝言は寝て言え(←実際はもうちょっとオブラートに包んだ言い方)」


幸いなこと、私はシステム開発のスケジューリングについてある程度の裁量を認められているのでどうにかパリングに成功したが、もしかすると上の様な誤解は未だに一部でまかり通っておるのか、とちょっと疑念を持った。

上記は多分極端な例だと思うのだが。例えば営業畑のエライ人が上記の様な誤解を持っていて、しかも思いついた「リメイク」を自分の誤解に基づいたスケジューリングで押し通してしまったら、そりゃもうひどいことになるんじゃないか、と。そう思ったのである。


もしかすると、今ゲーム業界でおきている騒動の多くは、根っこに「リメイクは簡単」という誤解を隠していたりするんじゃないだろうか。勿論技術者さんならそんな誤解をもつ筈がないのだが、開発の方向性を決めるエラい人は往々にして技術者ではない。


折りよく、という訳じゃないが。海腹川背のリメイク版についての話が出ていたので、ちょっと紹介してみる。
スラッシュドット:海腹川背portableは地雷らしい?


以前にも似たようなことを書いたが、「リメイク」というものには、時として新規作成より手間とコストがかかる。

原因は幾つもあると思うんだけど、

1.「ソースの再利用」というものが、多くの場合絵に描いたもちであること。
2.人の入れ替わりが激しい業界において、以前のソースへの理解が深い人が、十分な人数残っていることが稀であること。
3.「プラットフォームの違い」というものの障壁が想像以上に大きいこと。
4.元の「完成形」がある分、移植にあたっての差異、再現落ちがバレやすいこと。



この辺が分かりやすいと思う。

例えば1番について言えば。まあ、要件定義とか基本設計とか、その辺の部分がある程度省略出来る、というのは確かにそうなんだけど。話がもうちょっと詳細なレベルに入っていくとそうはいかない。

大企業の、キチンとドキュメントが管理された開発体制における整理されたソースであれば、もしかすると再利用も容易なのかも知れないが(これは単なる留保であって、実際はそうでもないだろうな、と私は思っている)、多くの場合、ソースの再利用というものはやればやる程ドツボにはまる。

勿論これは「全体としてみれば」の話で、部分的に「あ、こういうコードが欲しい」という形で昔のソースをつまみ食いしてくる、というのは非常に有効である。ただ、「昔作った完成形があるんだし、これ再利用すれば楽でしょ?」という意識に関しては、大抵の場合誤解純度100%だと言わざるを得ない。

そもそも、煮詰まってきたコーディングにおいて、多くの技術者は後々のことを考えている余裕などないというのが常だと思うのだ。納期という絶対命題に追われて、とにかく完成させなくてはいけないという状況下では、コードはどんどん複雑怪奇になっていく。

あるかないかも分からない「リメイク」に備えて、分かりやすい、再利用しやすいコードを用意しておく、なんて余裕をもてる人が、チームの中に果たして何人いるか。この辺の事情は、多分どこのシステム開発でも同じだと思う。

まず、何を書いているのか理解しなくてはいけないというのが、ソースの再利用における絶対条件である。海腹川背リメイクについて邪推すれば、おそらくこの段階でつまづきが発生したんじゃないだろうか。ロープの挙動という、おそらく一番根本で、かつ一番高度な処理をやっている部分で。

しかも今回の場合、3月の決算に間に合わせなくてはいけないという時間的制約があったとすれば、ある程度まで進んだ時点で既に後戻りは出来なかった筈だ。この点、開発者さんには同情する。


2番、3番はその多くが1番に流れ込む問題だと思うが、例えば冒頭の会話内容の例で言えば、問題のシステムの開発言語はDelphiであり、しかもそれを作った人は既に会社を辞めており、かつその内容をJavaに移植する必要があった、と書けば分かる人には分かって頂けるのではあるまいかと思う。Delphi読めるヤツいないっつーの。

ゲームのプラットフォームについての知識がないので知ったかぶりをするしかないが、まあ、スーファミのゲームをPSPに移植する際も、相当の高さの壁があるだろうことは想像出来る。海腹川背の場合、間にプレステの「旬」があるからどうか分からないけど。


4番は、まあ、そのまんま。内輪のシステムであればともかく、「ゲームのリメイク」という舞台においては、売り上げをあてこんでいる旧作ファンの全員が、「差異に敏感」な人たちである。 当たり前だ、旧作のファンは、旧作と同等かそれ以上の内容、及び再現度を期待してリメイクを買うのだから。その視線が時として非常に厳しいものになることは、過去何作ものリメイク失敗作が証明している。「リメイクの対象になる程の人気作」という時点で、既にハードルは十分高いのだ。


営業さんにとって、リメイクの最大の魅力は「旧作ファンが無条件でとびついてくれる」ということでもあろう。売り上げの確保が至上命題であることは私にも分かる。リメイクの難しさが分かった上で、適当な内容のリメイク作品を売りさばこうとするならば、それはもう買う方も悪い。悲しいことだが、「ファン心情につけこまれない様にしましょう」と言う他ない。適当リメイクを作った会社がきちんと懲りる様にしなくてはいけない、というのは、それはそれで重要だろう。


ただ、仮に「リメイクって元があるから開発コストが削減出来るし、その割に山ほど売れるから美味しい」などというとんでもない誤解を未だに持った人がいるとすれば、その人にはこう言わねばならないだろう。



リメイクを舐めるな、と。
posted by しんざき at 12:04| Comment(52) | TrackBack(1) | レトロでもないゲーム

2008年03月25日

「真ん中」を探すこと。


私の思考法の基本は、「真ん中探し」だと思った。


以下、当たり前のことなのかも知れないけれど、ブログに何かを書く時の自分のスタンスについて、ふと考えてみた内容。


二人の人が激しく言い争っているとする。私は、自分の立場や心情は取り敢えずぶん投げておいて、まず「真ん中はどこか」を考えたくなる。一方の立場に立って考えるより、双方の立ち位置を確認して、双方にとって妥当な地点というのは存在するのか、存在するとすればそれはどこなのか、ということを考えたくなる。

あるテーマについて、皆の意見が激しく一方に偏っているとする。私は、それに同調したり反対するよりも先に、やはり「真ん中はどこか」を考えたくなる。皆の立ち位置の正反対を仮定して、双方にとって妥当な位置と、何故皆の立ち位置がこうも偏っているのか、突き詰めたくなる。


実効的か、と言われると、正直あんまり実効的ではない。役に立つか、と言われると、正直あんまり役に立たない。中庸と言えば聞こえはいいが、多くの場合、真ん中探しは議論の収束に寄与しない。


ただ。世の中に、「絶対評価」ですぱっと解答が出せる問題は、多分凄く少ないと思う。殆どの問題は、小学校の通信簿の様に、飽くまで「相対的に」1から5までを採点するのがせいぜいであって、だから基準としての「3」を誰かが探すことには、それなりの意味があると私は思う。自分が1をつけるか5をつけるか、というのはまた別な話。

だから、真ん中を探している。皆普通にしている思考なのかも知れない、とも思うけど。


で。


思考として「真ん中」であろうとする時、その過程には多分二つある、と思う。

一つは、「ある立場」と「ある立場」を結んだ線分の真ん中の地点を探そうとする、言ってみれば一次元の真ん中。もう一つは、視点をメタに引いて話の構造自体を分析しようとする、言ってみれば二次元の真ん中。


あるテーマについて、「この答えは1だ」と言っている人と「この答えは10だ」と言っている人がいて、「じゃあ5くらいが妥当なんじゃないかなあ」と考えて検証するのが一次元。「そもそもその問題は足し算なのか掛け算なのか、実は割り算だったりするんじゃないか」という疑問を提起するのが二次元。私の中ではそういうことになっている。

どっちが役に立つか、というと、多分どっちも微妙である気はする。ただ、思考として面白いのは後者だと思う。議論をしている当事者にとってよりどうでもいいのも後者だと思う。まあ、どんな議論でも外野の声なんか多かれ少なかれ邪魔だと思うから、こればっかりは仕方ない。


私は哲学に関する知識がぜーんぜんないので、上にうだうだと書いた様な方向性を何とラベリングすればいいのかよく分からない。相対主義、というものともちょっと違う様な気がするが、多分何か名前はあるんだろう。気が向いたらもうちょっと調べてみる。



今日も「真ん中」を探しつつ、特に結論の出ない話。
posted by しんざき at 19:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文

2008年03月24日

今日のしんざき 08/03/24


引越し準備追い込み中。かつ年度末プチ修羅場中。引越しにかかる業務のかなりの部分を奥様任せにしており、内心忸怩たるものがあったり。

罪滅ぼしという程のもんでもないが、奥様の睡眠時間を確保する為、日曜は息子さんと二人で布団部屋にたてこもり、暫くの間天岩戸をやっていた。

最近は表情もくるくる動くようになり、どうも本人にとってはこれは単語なんじゃないか、と思える様な発声もする。布団の下に自分から突っ込んで、出られなくなって足をばたばたしたりもする。携帯電話をテーブルから拾い上げ、がんがん床に叩きつけて私に怒られもする。観察していると色々と面白い。

親の責任、というものを色々と考えつつ。まずは無事に引越しを済ませんとなあ。もう明後日にはPC片付けないといけないとか、時間が経つの早過ぎ。


・赤ん坊を寝かしつける時の幾つかのTIPS。

○ポイントはリズムと落差、の様な気がする。横抱きでゆらゆらと、左右に一定のリズムで揺らすというのがひとつ。たまに膝を落として落差を作ってやるというのがひとつ。どうも、浮遊感というのは彼にとって重要な睡眠ファクターらしい。

○大事なのは余裕。寝かしつける方に余裕がないとおちおち寝てらんない、というのは、そりゃまあ当たり前だろうと。私は幸い弛緩の隙間で人生やってる様な余裕っぷりだが、余裕がない時は深呼吸を三回しよう。

○寝床に置く時。起こさない様、慎重に慎重に置こうとすると却って目を覚ましてしまう様な気がする。むしろ無造作に置いた方がよさそう。

気がついたら書き足す。


・気になったURLとか。

みくよん

最近100回で完結した、ボーカロイド4コマ。序盤のほのぼのギャグはどこへやら、後半からは怒涛の構成。100回で描きあげるのがすげえ。

Webには色々な才能が無造作に転がってるなあ。


・一方その頃、世界樹IIは。

第五階層に突入しました。

相変わらず、基本パーティーはブシドー・ソドマン・メディック・アルケミスト・ガンナー。20Fで迷いまくってたら平均レベルが50になっちまったい。おかげで探索そのものは割とスムーズですが、このレベルでもfoe相手には余裕で死ねます。いいバランスだなあ。

ただ、難易度というものについては、最近のRPGの調整の難しさに思いを馳せずにはいられない。プレイヤーにとっての自由度が高ければ高い程、バランス調整は幾何級数的に面倒くさくなっていく。開発者さんに深く感謝。
posted by しんざき at 22:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月19日

レトロゲーム万里を往く その77 ザナック

さてここで問題です。あなたにとって、「ファミコン最高のシューティング」とは何でしょう?


何度か似たようなことを書いているが、それが何であれ、「最高」を決めるのは意外に難しい。「最高のゲーム」などというテーマではより一層その難しさに拍車がかかり、「人の数だけベストゲームがある」というテーゼはあながち誇大でもないんじゃないかと思わせてくれる。

例えばゼビウスやグラディウス、あるいはツインビーといった、ファミコン初期の偉大な移植作を挙げる人がいるかも知れない。スターソルジャーやへクター'87といったキャラバン系シューティングも名前が挙がるだろうし、「烈火」やオーバーホライゾンといったFC後期のタイトルが出てきても不思議ではない。

スカイキッドやイメージファイト、B-WINGやエクセリオンといったタイトルに入れ込んだ人もいるし、アーガスやテラクレスタ、ヴォルガードII辺りも当然アリだろう。ファルシオンやコズミックイプシロンの様な擬似3Dシューティングが候補にあがる可能性だってある。私にとっても、「ファミコン最高のシューティング」というテーマで一つのタイトルを選ぶのは結構難しい。

が、「ファミコン最強のシューティング」という言葉を使うとしたら、私は一つのタイトルを迷いなく挙げることが出来る。

「ザナック」である。

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posted by しんざき at 17:01| Comment(9) | TrackBack(0) | レトロゲーム

今日のしんざきが気になったニュースとか 08/03/19

おくやみ:作家 アーサー C. クラーク、90歳


20世紀が終わってしまいました。



ただ、黙祷。

海外の作家さんが亡くなったというニュースを、「自分にとっての喪失」として受け取ったことは二回目である。一回目はエンデだった。

ブラッドベリにはご壮健であって欲しいなあ。



・チベット関係のお話。

時事ネタはあんまり触れてないんだけれど、ちょっとこれは「時事」では片付けられないな、と思ったので。気になったURLだけ幾つかメモ。

情報統制を越えて漏れ聞こえるラサの悲鳴をきけ!
チベットの活動家組織、反中国デモ参加者の遺体写真を公開か
「中国警察、19人射殺」 チベット亡命政府発表
首相「冷静に適切な対応を」 チベット騒乱
裁かれるべきはダライ・ラマ=「国際調査」は論外−中国


色々考えるんだけど、その多くはブログに載せられる言葉にならない。ただ、憤りよりは不安と同情と危機感の方が大きいし、「誰ならば」日本の対応がもう少しマシになるのだろうか、という疑問もある。

何はともあれ、チベットに、チベットの人々が望む形での平和が訪れます様に、という祈念。
posted by しんざき at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月18日

「生き方の一般化」が無理過ぎる話

要は、勇気がないんでしょ?
[悪意]id:guri_2という、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎を、このリルリルが貴重な時間を浪費して罵倒してあげる

この辺を見ていて、ふと思ったこと。

ここしばらく、「ポジティブ vs ネガティブ」であるとか、「生き方強者 vs 非生き方強者」という様な論争を頻繁に見る。


まず第一に。当たり前の結論から先に言うと、こういった「生き方」的なものを一般化することは本来不可能である。

人間の人生というのは、生まれた瞬間から扇形に枝分かれしていく。生まれた当時は同じ赤ん坊でも、「ある人の十年」と「他のある人の十年」が同じである可能性は、当たり前だが皆無である。

経済状況から現在の環境、好み、人間関係、果ては思考から性格まで無限のパターンが存在するのに、「ある人にとって適した生き方」が「他の人にとっても適した生き方」である可能性が、一体どれだけ存在するというのか。

世の中のあらゆるライフハックからは、「このライフハックは、飽くまで著者にとって有効だったライフハックであって、あなたにも適合するかどうかはさっぱり保証出来ませんよ」という但し書きが抜け落ちている。

勇気のある無しだ、ポジティブだネガティブだ、その辺の話は一から十まで「人それぞれ」という言葉でしか表現し得ないものであって、「正しい・正しくない」ではなく「適している・適していない」という軸でしか語り得ないものである。

しかし、ブログの文言として表現する際に「人それぞれ」とか「私の場合は」とか、いちいち全ての言葉に注意書きを付加していたら鬱陶しくて仕方ないから。ある程度一般化しないとテキストとして格好のつけ様がないから、人は「生き方」議論を一般化するのだ。本来は不可能なことなのである。

これ自体は、別に悪いことではない、と思う。表現の話だ。


で。


ライフハックの発信者の側には、上記の「本来一般化には無理がある」という当然の前提を、把握している人もいれば把握していない人もいる。「自分だけの、自分にとっての理想のスタンス」が他人にとっても理想のスタンスである筈だ、と考える人は、意外なことに割といる様なのだ。そういった人は、「他人も自分の様に生きるべきだ」という確信をもって、自分の生き方を啓蒙する。

勿論そうでない人もたくさんいて、そういった人は「これは飽くまで俺の場合だけど」という逃げ道をどこかに残しつつ、最大限の一般化を試みる訳だ。


それに対して、ライフハックの受信者の側にも、「わかっている人」と「わかっていない人」が、多分、いる。


「一般化の無理具合」を認識している人は、「自分にとっての話」としては生き方議論を受け取らない。冷めた目線であれ、暖かな目線であれ、彼らがライフハックに向けるのは他人事を見る視線だ。勿論、発信者の一般化に無理を感じれば、そこに反発する人もいる。これは多分「アホか、それはお前にとっての話だろう、押し付けんな」という形をとると思う。


「一般化の無理具合」を認識していない人は、生き方議論を「自分にとっての話」として受け止めてしまう。時には頑張ってその「生き方」を実践しようとして、あるいは成功し、あるいは失敗する。そして時には、「生き方」の一般化の無理っぷりを認識しないままに、「何でこんな生き方を押し付けるんだ」「その生き方はおかしい」という種類の反発をする。


私は、上のリンク先の様な議論を見ていて、こう思う。

思考遊びとして「生き方」議論をするのは面白い。けれど、「生き方」は否定出来ない。そして「生き方」は押し付けられない。

「誰かにとって」の正解は、「あなたにとって」の正解じゃない。


上記リンクに対する反応であるとか、ブクマその他のコメントを見ていると、「一般化」に伴う負荷が妙に過大になっている様な、そんな気がする。人の生き方を自分に当てはめ過ぎる人もいれば、妙に過剰に反発する人もいる様な、そんな風に見える。勿論、「人は人」という前提の上で、人の生き方のいいとこ取りをすることは悪いことではない、とも思うのだが。

もしかすると皆わかっていてやっているのかも知れず、その場合私の様な頓珍漢は野暮の極みを言っていることになるのかも知れんが、ちょっと前提を確認しておきたくなった訳だ。

「無理は承知の上」なのかなあ、と。



関連:「個人的な問題でも一般化したい病」について
posted by しんざき at 09:12| Comment(3) | TrackBack(1) | ネットの話やブログ論

2008年03月17日

今日のしんざき 08/03/17

・日本の北の方に行っていた件。

奥様が臨床心理士のシンポジウムに出席するということで。それに付き合って、先週末から宮城に行ってました。ミッション「奥様がいない状態で、息子さんのご機嫌を数時間維持せよ」。いやー頑張った頑張った。

前回、同じく東北に行った時には地震で新幹線が止まったりしましたけど、今回は超円高でうちのシステムが止まったりしました。新幹線の中で電話対応をやる羽目になりました。勘弁。

3月一杯は仕事も私生活もゴタゴタと忙しそうですが、またゆるゆると何か書くですよ。
posted by しんざき at 23:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月12日

ある床屋さんとの、CRMについての会話。

CRMというのは、顧客の傾向をリサーチして、それに基づいた営業が出来る様にするシステム。なんとなく心に残ったのでメモっておくことにする。
妙にシステム開発に詳しい床屋さんだったが、そもそも何でこういう会話になったか、という導入は面倒なので省く。


彼曰く。システム会社がクライアントの注文に応じて開発するWeb系のCRMってのは、大抵ダメCRMだ、と。


「いや、単純な話。彼らが欲しがるCRMって、要は「お客さんごとに適した営業活動が出来る様にする」システムでしょ。それが既に発想としてダメなんですよ」

「へ。そーゆーもんですか。そのココロは?」

「そっすねー。たとえば。しんざきさん、こういう風にサクサク会話につきあってくれてますけど、正直床屋で会話なんてウザいなーと思うことあるでしょ」

「まあ、ぶっちゃけるとたまにあります」

「大抵のお客さんってそうなんですよ。じーっと黙って、「あ、この人は会話がイヤなんだな」って意思表示してくれるお客さんってすげー少数派。ほとんどのお客さんは、話好きみたいにサクサク会話をした上で、ある日ぱたっと来なくなっちゃうんです」

「まあ、そんなもんかも知れないですね。お客さんの反応で「こういう会話をしかけるといい」とか、そもそも判断すること自体がムダってことですか」

「そうそう。つまり、床屋の営業って、「何を出力するか」じゃなくて「何を出力しないか」じゃないといけないんですよ。普通のお客さんは、「これを話して欲しい」とか「こういう話題が好き」とか、そもそも思ってくれないですもん。お客さんから見ると、営業活動ってなければない程いいんです」

「でも、それもCRMってもんなんじゃないスか。相手が欲しがる情報だけ出す、みたいな」

「いや、「相手が欲しがる情報だけ出す」っていう思想じゃなくて、「相手が欲しがる情報以外は出さない」っていう思想で作られないといけない、って話ですよ。早い話、CRMって営業活動を支援するツールじゃなくって、むしろ営業活動を制限するツールであるべきだ、ってことなんです」


ははーーー。と思った。いや、床屋さんが言ってることが妥当なのかどうかは正直分からんが、話としては筋が通っている。

私自身はCRMにあんまり詳しくないし、自分で設計をやったこともないのだが、確か会社でセールスフォースか何か使ってたと思うので、気が向いた時に調べてみようかな、と。


以下は同僚との会話。

「へー、なんかすげえ詳しい床屋さんっすね。元SEかなんかですか」

「いやー、受け売りだって言ってたけど、何の受け売りかは教えてくれんかった」

「でも、そういう会話が出来る床屋さんって貴重ですよね。なんか面白そう」

「うん、まあ、面白いことは面白いんだけどね。でも当分行かないと思う」

「え。何でっすか。やっぱしんざきさん、会話自体うざい派ですか」

「いや。ただ単に下手だから」

「……まあ、確かに、割と独創的な髪型っすね」

「普通の床屋さんに独創性は不要なんじゃないかなあ…」


天は二物を与えず、というのはこういうことか。違うかも知れないが。
posted by しんざき at 22:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月09日

ブログの加齢を考える。


ちょっとじじむさいことを考えてみたくなったので、考えてみることにする。


一般論として、「年をとる」ということは、人生の総量における「過去分」のパーセンテージがどんどん増加していくということである。

およそ老化に伴うありとあらゆる現象は、上記段落の延長で表現可能だ。体の老化は、身体的な「過去分」アーカイブが蓄積していくことによって発生する。精神的な老化、例えば物事に新鮮味がなくなっていくというのは「人生経験」という過去分の蓄積によるもの、と表現することが可能である。


勿論、この「過去分の蓄積」にはいい面も悪い面もある。過去分のアーカイブがいい感じに溜まって、その人のレベルアップに寄与する加齢を即ち成長と呼ぶ。過去分のアーカイブが量的に澱んで、その人の在り方に様々な制限を加える加齢を即ち老化と呼ぶ。

「経験を活かして次に繋げることが出来る」ことが成長で、「経験に制約されて次に踏み出せなくなる」ことが老化、かも知れない。


ブログも、多分、成長もすれば老化もすると思う。いい感じに過去分のテキストが溜まっていって、読んでくれる人も増え自分の文章にも幅が出る、というのが「成長という加齢」だ。過去分のテキストに縛られてそこから外れたものが書けなくなり、段々ブログを書くのが面白くなくなってしまう、というのはおそらく「老化という加齢」だろう。

ブログを成長させる為にはどうすればいいだろう。


多分、話は「過去ログを活かす方法」「過去ログとの付き合い方」ということになっていくんだろうと思う。既出、既出が気になってキーボードが重くなってくれば、それは老化。過去ログの方向性が気になって、新しい発想が書けなくなってくれば、それは老化。

一般化する気は全然ないけれど、例えばこういうやり方をすればいいのかなあ、という方法はいくつか思いついた。

・過去ログの「続き」を考える。
・過去ログと今の自分の「差分」を検証する。それをネタに思考を発展させる。
・過去ログへのリンクをガンガン貼る。過去ログを根拠にエントリーを書く。
・既出を怖がらない。既出=補強と考えて憚らない。
・「専門性」を求めて来てくれる読者を意識し過ぎない。専門性に幻想を抱かない。読者を信頼する。


なんかあんまり実行してない気もするな。

大体読んだままだが、例えば5番目。一昔前、「ブログを書くコツ」的な話で、「専門性が高ければ高い程受ける」みたいな項目があったと思う。これ自体は間違いじゃないと思うし、自分の強みを持つというのは重要なことだとも思うけれど、これを「初心者の為の言葉」に位置づけてしまった点については、功罪で言うと罪の方が大きかったんじゃないかと私は考える。

専門性は諸刃の剣だ。ブログの専門性が高ければ高い程、そのブログが話題的に煮詰まっていく可能性も上がるし、発想を発展させることも難しくなる。

そして、「専門性が高いから読者が来てくれるんだ」と考えてしまうと、リピーターが離れてしまうことを恐れてますます「外れた」記事を書きにくくなってしまう、という側面も結構あるんじゃあるまいか。

大抵の書き手の専門性なんて、突き詰めたところで高が知れている。大多数の読者は、そのブロガーの専門性ではなく、そのブロガーが発する言葉を読みに来ていると、私はそう思うけれど。心配しなくても、読者は読まない時は読まないし、読む時には多少外れてても読んでくれるさ、と、私はそう思うけれど。

ということで、不倒城的には次の様な方針になる。

・専門性とかあんまり気にしないで、書きたいことをガンガン書く。
・過去ログは、まあ、たまに読み返す。それで何か思いついたら書く。
・気が向いたら過去ログにリンクを貼る。


アレ?上で書いたこと全然実行してなくね?


それはそうと。上の議論とは一度断絶するけれど、そういえば、昔世話になった編集者さんがこんなことを言っていた。

「一週間前の自分は赤の他人」

文章を書く上では、まあそういう考え方もアリなんだろうなあ、と。
posted by しんざき at 00:24| Comment(5) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論

2008年03月06日

今日のしんざきが気になったニュース 08/03/06

墓地が満杯のフランスの村、村長が「死亡禁止」を通達

いや、これ実は絶対いい話だって。フランス方言がわかんない記者が、横で聞いてててきとーに訳しちゃっただけだって。


推測するに、おそらく主役は筋骨隆々、古強者という雰囲気ばりばりのミリタリー村長、ヴィクトル・ボラン(64)に違いない。

小さな村に迫り来る山賊の群れ。村の子供達を守る為、ヴィクトルは十数人の若者を集め、決死の戦いに赴くのだ。

覚悟を決めた顔、不安に青ざめた顔、ふてぶてしい程に落ち着いた顔。様々な顔を前に、村の集会広場で彼は朗々と声を上げる。

「諸君。これから我々が往くのは、帰り道の定かならぬ戦場だ」

一旦言葉を切る。

「勝とう、と思うまい。我々に課せられた唯一絶対の使命は負けぬことだ。死なぬことだ。生き残って、再び諸君らの家のドアを開けることだ。今、私は村長として、諸君に唯一つの絶対命令を言い渡そう。「死ぬな」」

ニヤリと笑って、

「命令違反には厳罰だ。なにしろ、諸君に死なれたら私が困る。墓地は既に一杯だしな」

どっと笑い声が上がる。決戦の前に流れる、ほんの数分の和やかな雰囲気。




横で聞いてた記者:「墓がいっぱい…なので…死んだ者は厳しく…罰せられる、と。なんだそれm9(^Д^)プギャー」


ヴィクトルと彼の村に幸運あれ。
posted by しんざき at 22:49| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月05日

今日のしんざき 08/03/05

・不倒城はたまに傾くけど倒れないよ。

多分。

こーゆーブログでありたいなあ、と思います。

ということで、なんかしれっと再開してますが、二月下旬は割と余裕でお休みしてました。

反応欲求か出力欲求、どちらかが低下した時は休み時、と自分でも思ってますので、書かなくなる時は無言で書かなくなったりもします。ほっとけばまた書き始めるので、ご容赦頂ければ。

関連:ブロガーがブログをやめる日

それはそうと、本当に忙しい時には何が目減りするって、何よりもまず反応欲求だなあ、と思った。

あと、中断した後でも読んでくれる人がいるのはつくづくあり難いなあ、とも思った。皆さんありがとうございます。


・Wikipediaの、千島学説の項目のノートが凄いことになってる件について。

ノート:千島学説

まほろさんお疲れ様です。というか、NATROMさんの奮闘が物凄いが、結局議論が成立する気配すらないことに落涙。

一度「信仰」に至った人の思考がそんじょそこらの努力では覆らない、ということは分かる。彼らは、「外敵」とターゲットした人の発言を、むしろ自分の思想を補強する為の材料として曲解するから。

ただ、私にいまひとつ分からないのは、この「学説」の一体どこに、信仰を生み出す程の求心力があるのか、ということだ。以前のエントリーで書いた「気付き」もその一端ではあると思うんだけど、他には何が。

なんか、表に出てない要素もある様な気がする。


・なんだか大騒ぎになっているmixiのアレについて。

純然たる野次馬的に。

「mixi日記、無断書籍化はしない」――規約改定の意図をミクシィが説明

実際のところ、mixiにあふれる普通の人の著作物を出版して商売になる、なんて考える人がそうそういるとは思えず。

何人か指摘する人はいたみたいだけれど、多分これ、何かしらのサービスのリリースに備えて、事前に穴を塞いでおくための予防線でしかないんだろう。その意味では怒りをつぎ込むに値しない。

ただまあ、脇が甘いというかタイミングの読みが甘いというか、発表の仕方もまずいというか。「どんな書き方をすれば、今すげー過敏になっているユーザー達にこの規約が受け入れられるんだよ」という考え方も当然あるので、起こるべくして起こった大騒ぎなのかも知れない。

取り敢えず経緯観察、するけれど、多分適当なタイミングで撤回されるに一票。


・世界樹の迷宮IIで第三層に辿り着いた件について。

平均レベルは25くらい、だけど、二層ボス戦でガンナーだけ生き残ったら一人だけレベル30になっちまったい。

ちなみに現在のメインパーティー構成は、

前衛:ソードマスター♂、ブシドー♂ 後衛:メディック♀、ガンナー♀、アルケミスト♂

という紙装甲超攻撃偏重型。一瞬で前衛が死にそうな構成だけど、ここまでは意外となんとかなってます。まあ、ボス戦は毎回全滅しかけるけどな!!!

その他、控えにパラディン、レンジャー、カースメーカー、ペット辺りが控えてるので、現在はレベルを上げつつ11Fの探索を進めようかと思うところ。ゆるゆるやります。
posted by しんざき at 12:25| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月04日

ある漫画雑誌編集者さんから愚痴を聞いた話。


ちょっと気になることがあったので、許可を受けてメモ書きする。

以下、とある少年漫画雑誌の編集者さんの愚痴。


漫画の展開に関する「企画書」が送られてくることは結構頻繁にある、という。読者からである。

企画書というのは読んで字の如くで。通常のアンケートの様な内容を遥かに越えて、「○○はどうすれば面白くなる」「こういう展開にすると面白い」といった「企画」を、編集部に送りつけてくる読者さんがしばしばいる、という話なのである。

単なる他愛ない中二病かというと、まあ99.4%くらいはそうなんだろうと思う。とはいえレベルは案外天から地まであり、どこからどう見てもノートの裏表紙の落書き、というレベルのものもあれば、実はよその出版社の編集者なんじゃねえか、と思うくらい体裁の整ったものも稀にあるという。

どんなものであれ、殆どはその作品への愛から書かれたものだろうし、参考になることも(極めて稀に)あるので、基本的には「ファンレター」として扱うそうなのだ、が。


なんか、「このキャラを殺すと面白くなる」という「企画」をすげー勢いで送りつけてくる読者さん、というのがいるらしいのだな。どんな死に方をさせれば作品が感動的になるー、とか。これこれこういう場面、こういう描写で殺すべきだー、とか。


ありゃ、と思ったのは、最近3人くらいの別々のルートから、数ヶ月毎くらいに同じ話を聞いていたからだ。雑誌はバラバラなので、継続的にどの雑誌でもあることなのか、ここ最近の傾向でもあるのか、あるいは一人の読者さんが偏執的に暴走しまくっているのか、その辺の所は良くわからん。昔から良くある話なのかも知れん。ただ、偶然それを目にした作家さんが結構へこんだ、という話を聞くと、むうと考えこんでしまう。

以下、幾つか考えこんだこと。基本的に未整理。


確かに、「キャラクターが死ぬ」という場面を描写するのが上手い漫画家さん、というのは、いる。でも、それは飽くまで「○○を作品から退場させる」という覚悟をした上での演出なのであって、読者がそれを求めるのは結構えぐいよなあ、とか。

作家さんは当然自分のキャラクターには愛情をもっている訳で、そういう言い方をされるとへこむ人もやっぱりいるんだなあ、とか。(新谷かおる辺りはどうか知らんが)

読者には、「作家さんに自分の言葉が届いた時の影響」まで考えてファンレターを出すべきなのだろうか、とか。まあ普通はそんなこと考えないよなあ、とか。

そもそも「○○を殺すと作品が感動的になる」なんて思考に、どんな経緯を辿れば辿り着くのだろう、とか。


深く考えると色々テーマがありそうなので、その内また検討してみる。以上、メモ。
posted by しんざき at 18:23| Comment(21) | TrackBack(1) | 日記

2008年03月03日

ただ口汚いだけのテキストを、「毒舌」というラベルで救済するのはそろそろやめにしようよ

世界があまり変わらないのでブログやめようかと思う
 政治的な左右を問わず、相変わらず汚い言葉で自分の感じている正義を主張する大小の声にちょっとうんざりして。
こちらを読んで、ふと思ったこと。ブクマでもそのまんま書いたことだし、正直タイトルの時点で完結してしまってる訳だが。

汚い言葉、というか。問題は汚い言葉じゃなくて、「強い言葉」と「汚い言葉」を混同している人、だと思う。汚い言葉を使うことの印象だけに目がくらんで、その印象が説得力を強化するという幻想を抱えて。

そして、その混同を自覚しないままに、自分の文章の吐き散らし方を「芸風」「持ち味」だと思い込んでしまう人、でもあると思う。前者がレベル1なら後者はレベル2だ。

レベル3になると、ただ思い込んでしまうだけならまだしも、これが自分の芸風なのだと周囲に喧伝してしまう人、という称号を入手してしまう。この辺にくるとそろそろ引き返せない。後戻りをしようにも、振り向けば「過去ログ」という巨大な障害が、天を衝かんばかりにそびえたっている。


誤解を恐れずに書くとすれば、「毒舌」という言葉が随分安くなったなあ、と思う。理由はよく分からないが、いつごろからか、単に口汚いだけのテキストを指して「毒舌」という言葉が割り振られる傾向が強くなってきた、気がする。単に暴言を書き連ねているだけの文言に「毒を吐く」というラベルが貼られている現場をよく見かける様になった、気がする。


違うだろう、と。それは「毒舌」という言葉に失礼だろう、と、私は思う。利用価値の無い毒など存在しないのだ。毒舌が毒舌である為には、そこに薬になる成分が含まれていないといけない。毒舌なんてラベルを、そんなにお気楽に使っちゃいけないのだ。

お気楽に用いられた「毒舌」ラベルは、単なる暴言をごくありふれたレベルの文言として免罪し、次から次へと「ただ汚い」言葉を量産していく。それこそ伝染病の様に。

口汚さが説得力を高めるなんてことは絶対にない、と私は思っている。むしろ、口汚いテキストというのは、ただそれだけで重大なハンデを抱えている、と私は思っている。「口汚い」というポジションは、あまりに明確過ぎるから。そこに客観性を乗せるのは至難の業だから。

だというのに、口汚さが説得力を高めると勘違いしてしまう人の数が減ることはない。その理由のひとつが、「毒舌」というラベルにあるんじゃなかろうか、とも私は思うのだ。


凄く念の為に書いておくと、私は「毒舌」が嫌いではない。「毒」を読みたくないと思ったことは一度もないし、言葉狩りをする意図もない。毒も薬も、Webの面白さの重要なエッセンスだ。

ただ、自分のことを毒舌家だと考えている人には、自分のブログのカテゴリーに「毒舌」という一項を用意している人には、一度は立ち止まって頭を傾けて見る義務がある、と私は考える。



この言葉は本当に「毒」を称するにふさわしい言葉なのか、と。

単なる「汚れ」だったりはしないよな、と。
posted by しんざき at 22:03| Comment(8) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論

2008年03月02日

「予想通り」のユーモアと、「予想外」のユーモア。


つまり、どんな感情に由来する笑いか、という話になる様な気がする。


仕事や引越しでてんやわんやの状態になっている内に、気がつくとお子さんが生まれてから8ヶ月が過ぎた。最近、良く笑う。

彼が笑うパターンを観察していて、どうも二つのパターンがある様だ、ということに気付いた。


「予想通りのことが起きた」時の笑いと、「予想外のことが起きた」時の笑いである。


例えば、彼に「いないいないばあ」をやってみせるとする。最初の一回は大抵きょとんとしている。二回目で、ちょっとにやーっとする。三回目で受ける。きゃっきゃと笑い出す。

三回目のタイミングをずらしてみたりとか、色々実験してみるに、どうもこの時の笑いは「期待通りのことが起きた」「予想通りのことが起きた」ことに対する笑い、である様な気がする。


「繰り返し」による笑いというのは、落語や漫談でも頻繁に見かける。同じパターンが三回繰り返され、二回目、三回目になるにつれて笑いが大きくなっていく、というアレである。古くはドリフの様な、お笑いバラエティでもよく見かける手法である。


とすると、「予想通り」「期待通り」という嬉しさ、納得みたいなものが笑いに結びつく、という一面があるのだろうか。もしかすると結構普遍的な話なのかも知れない。


一方で。上の話と矛盾する様なのだが、息子さんの笑いにはもうひとつパターンがある。予想外のことが起きた時、予想を外された時に発生する笑いである

例えば、私がソファーに寄りかかって本を読んでいる。彼は、本を読んでいる時の私があまり反応しないことを学習しているので、私の足の上を乗り越えて反対側に向かおうとする。

その時、突如彼に顔を近づけて威嚇する。彼はびっくりして、受ける。きゃっきゃと笑い出す。

これはどうも、「予想外」「驚き」という感情が笑いの形で表れている、ということである様な気がする。推量だけど。フロイトやベルクソンでも読んでみよーかしらん。


いずれにせよ、お子様の感情表現が豊富になってきた、というのは純粋に楽しい。日々是発見、という時期でもある。


笑いというものは高度な精神作用である、みたいなことをどっかで読んだ。人生を始めて8ヶ月を経過したうちの息子さんは、手始めに「嬉しさ」や「驚き」とか生じる笑いを身に着けた様だ。

やがて彼は、「怒り」や「寂しさ」から生じる笑いも知る時が来るんだろうか。
posted by しんざき at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記