2017年03月16日

かつて、「web理想主義者」だった私へ



例えば私は、かつて、「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」と思っていた。


情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」と思っていた。「だから、発信者の属性情報なしで様々な情報を発信出来るwebは、情報を公平に評価できる場所として理想的だ」と思っていた。「情報を評価するに当たって、発信者の属性情報なんて邪魔なだけだ」とすら思っていたのだ。


他にも色々ある。例えば私は、「webでは、様々な一次ソースに直接アクセスできる人たちが、直接情報を発信することが出来る」「だから、メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」と信じていた。


こうして考えると、私はそこそこ純粋な「web理想主義者」だったんだ、と思う。かつて、私のような「理想」を単純に信じていた人は、web界隈だけではなくたくさんいたと思う。正直なところ、今でも多少は、上記のような理想を頭のどこかに残している部分はある。


理想と現実は常にぶつかり合うものだし、どこかで妥協点が生まれるものだ。現実が理想と背反したからといって、理想を捨てるべきだ、ということにはならない。理想を保持しつつ中庸を歩く、という選択肢だってある筈だ。


ただ、現時点での話をすれば、私にとっての「web理想主義」はだいぶ揺らいでいる。ともすれば「いや、これは現実性のかけらもない理想だったんじゃないか?」と思ってしまいそうになる程だ。


今の私は、「誰が発信したか」は結局、情報の信頼性を判断する上で不可欠な要素なんじゃないか、と思い始めている。

信頼性の高い情報を流し続けた結果、その人自身の信頼性が上がるとしたら、それは結局権威とそれ程変わらないんじゃないか、と思い始めている。

なんだかんだで、たとえ編集を経たとしても、また時に誤報があったとしても、メディアの編集を経ることによる情報の信頼性向上はwebの比ではないな、と思い始めている。


去年一年間は、かつてない程に、「webにおける理想」と「webにおける現実」がぶつかりあった年だった、と思う。いや、ぶつかり合っていたのはもうずっと前からの話だが、去年程それが強く感じられた年は、少なくとも私にはなかった。


PV目当てに炎上狙いの誤報を流し続けるまとめサイトは一向に淘汰されず、コピペまじりの薄っぺらい情報が大量生産され、しばらく見なかった炎上芸人がいつの間にやらひょっこり復活している。

情報が玉石混交なのは当然だが、程度というものはある。川原が見渡す限り石ばかりでは、玉を見つけるにもなにかしら緊急手段が必要というものではないか?


いや、勿論、その一方で「理想」を体現してくれるような情報に触れなかったわけではないのだ。既存メディアではとても見れないような論証、新聞やテレビでは読めないようなソースに触れることが出来て、これぞweb、という気分になったこともないわけではなかった。ただ、機会としてはそれはどこまでも少数派だ。


抱え込んでいる理想が削れていく過程は、水を持たずに砂漠でじりじりと灼かれる感覚に近い。正直、去年一年間はwebの情報に触れるのがつらかった。個人的な好き嫌いもあり、「ゲーム系迷惑まとめサイト消滅しないかなー」と思いながらwebをやっている時間がかなりあった。別にゲーム系に限らないが。


実際のところ、今の私はまだ、「web理想主義者」でなくなったわけではない。理想を完全に捨ててはいない。


「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」

「情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」

「メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」


その通りだ。その通りであって欲しい。

理想を捨てずに、けれど現実的な道を行こうと思う。そうすることで、少しでも理想に近づくことが出来ればいいなあ、と思っている。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする