2018年02月07日

奥様のことを名前で呼んでいる


単なる個人的な雑感です。


しんざき家では、夫婦間はお互いの名前で呼び合っています。

より正確には、学生時代、付き合っていた頃の呼び名のまま、「〇〇ちゃん」「△△ちゃん」と呼び合っています。子どもに対しての3人称としては「パパ」「ママ」という言葉を使っていますが、特に子どもの前で二人称を変えたりはしていません。堂々と、子どもの前でもその呼び方で呼び合っています。結婚して14年間、ずーっと一貫してそうです。

なので、子どもたちにとっても、パパとママがお互いを名前で呼び合っているのは自然なことになっているだろうと思います。

別に何か取り決めをしてという訳でも、意識してやっているわけではなく、単にこれが私たち夫婦の間では一番自然な呼び方であって、それを変える必要も特に感じていないから、ということになります。

夫婦間の呼び名なんて個人的なものの最たるものでしょうから、他のご夫婦がどうしているのかはよく分かりません。皆さんどうしているんでしょう。


それはそうと。


後知恵で考えると、この「名前呼び」が私たちにとって自然なのは、「父親」「母親」になっても、根っこのところは変わらないでいよう、というスタンスがあるから、ということでもあるような気がします。


つまり、私としんざき奥様の関係性というのは、根本的なところでは14年前と何も変わることなく、お互いがお互いを尊重し合って、お互いの好きなところはそのままであって欲しいと。父親に、母親になったからといって、人間そのものが根っこから変わるわけではない。

振る舞いや習慣や、あるいは勿論生活を変えなくてはいけないとしても、どちらか片方が変えるということはなく、変えるなら二人で変えようと。

多分、そういうところが居心地が良いのではないかなあ、と思っています。いや勿論、最初からそこまで考えて「そういう風にしよう」と決めたわけでもないんですけどね。


夫婦にとって、「子どもを持つ」というのは物凄い変化ですし、それに伴って「父親」「母親」にならなくてはいけない、親としての振る舞いをしなくてはいけない、というのは当たり前の話です。

ただ、それにしたって、夫婦はワンセットで変わるものであって、父親、母親どちらかだけが変わるべきものでもないよなあ、と、少なくとも私は思うんですよ。出来ることなら、変化は片方だけが引き受けるべきではない。


なんというか、軸、みたいなものだと思うんです。


変わらない軸、みたいなものがあるから、そこ以外は自信をもって変わることが出来る。私たち夫婦にとっては、その「軸」が「お互いの関係性」であって、お互いの関係性が変わらないから、そこを支点にして二人がセットに「親」になることが出来る。

ちょっと抽象的な書き方になってしまって申し訳ないんですが、少なくともしんざき家では、夫婦の在り方ってそういうものなんじゃないかなーと。


だから、例えば育児に伴って我慢しなくてはいけないことがあるとして、それは二人で、あるいは二人代わりばんこに我慢するし、どちらか片方だけが我慢を押し付けられたりはしない。また、例えば学生の頃から続けている趣味にしたって、しんざきもしんざき奥様もやめてはおらず、音楽活動もそれぞれ続けていますし、それぞれライブに出ることもあります。私はしんざき奥様の歌が好きで、今後も歌を続けていって欲しいなあと思っています。

お互い時間を融通しあえれば、案外隙間って作れるものだと思うんですよ。


そういう意味で、「父親だけ」あるいは「母親だけ」が親として描写されているようなテキスト、親として我慢を強いられているようなテキストを見ると、私はそれだけでちょっと違和感を感じてしまいます。


なんでそこに父親しか、あるいは母親しかいないんだろう、と。

親は夫婦セットでやるものじゃないのかな、と。


勿論家庭の事情というものはあるものであって、例えばそれがシングルマザー、あるいはシングルファーザーに射程を限定したテキストであれば話は分かるんですが、どうもそういうわけでもないのに、一方に自己犠牲が偏ってることもあるみたいなんですよね。


父親もセットで、せめて我慢は二人かわりばんこでしようね、というコンテンツの方が、少なくとも私にはしっくりくるなあ、と。


そんな風に考えた次第なのです。

posted by しんざき at 15:11 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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