2019年02月07日

マナーコンサルタントの言う「お気持ち全面配慮」というスタンスがひどいと思った件

「他人の気持ちに配慮する」とか、「他人を不快にさせない」ということが重要でない、とは言いません。社会生活を営む以上、人と関わらないで生活をすることは不可能なんですから、お互いなるべく快適に過ごせた方がいいことは間違いないでしょう。会う人会う人、ゼンツッパで快不快を戦わせるのも面倒な話です。

ただ、これは飽くまでファールラインの話であって、どこかに必ず「それ以上配慮する必要はない」「それは配慮を求める方がおかしい」というラインがある。このラインを厳密に定めることは確かに難しいですが、少なくとも「いやそんな配慮を求められるのはおかしいのでは?」ということを指摘する、自分にとってのファールラインを明示して調整することは必要でしょう。

相手の「不快なお気持ち」を無限に気遣う必要はない。相手の「不快なお気持ち」をあらゆるシーンに渡って優先するのは、それは単にファールラインの提示と調整から逃げているだけ、言ってみればお気持ち奴隷根性です。

なんの話をしているかというと、この記事の話です。

この記事、「ああ、マナー講師とかいうのは、こういうスタンスでマナーを粗製乱造しているのか」ということがよく分かって、ある意味貴重な記事だと思うんですが。

ちょっと記事を一部引用します。



ファミリーレストランで食事の後、薬を飲もうとしたところ、隣の子連れ客に「人前で薬飲むのはマナー違反」と注意されたうえ、「食事中に薬を飲むなんて気持ち悪い」と心無い言葉を浴びせられたのだという。

また、ごまちゃんは、その後のツイートで、「ご高齢の方の中には“人前で薬を出すのはみっともない”という認識で育った方も一定数いるよう」とも書き込んでいる。


このまとめの話ですね。

具体的な内容についてはともかくとして、ざっと反応を見る限り、「そんなマナー聞いたことねえよ」という反応が大半を占めていることは分かります。つまり、少なくともこの「人前で薬を飲むのはマナー違反」という認識は、多数の人によって共通認識が形成されたものではなく、マナーなんだかそうでないんだかよく分からない「ファールライン上の話」であることが明白です。

個人的な感覚としても、「薬を飲む必要性」というのは人それぞれ、場合によっては生きるか死ぬかの話であって、それに対して「人前で飲むべきではない」などという言葉を投げかけるのは理不尽要求以外の何者でもないと感じます。人前で飲むことを避ける為にその人が死んだら一体だれが責任取るんですかって話です。

ただ、それに対して、冒頭記事の「マナーコンサルタント」の方はこうおっしゃるんですよ。


「薬を飲む側の人」は、飲まないと体調に関わるから飲みたいですし、飲まないといけない。
どうすればいいのかといいますと、レストランや職場など周りに人がいる場所で薬を飲んでいると、周りの人に体調の心配をさせたりとか、薬を飲むことを不快に思う人がいるかもしれないと想像して、緊急度に応じて、飲む場所やタイミングを考える。

命や体調に関わることだと思いますので、基本的に飲んでもいいですよね。
ただ、世の中には様々な考え方をなさる方もいるので、これを不快に思う人もいるということをわかった上で、自身がどのように飲むのか、そこにマナーが問われるのかもしれません。


これ、要するに、「相手の要求が理不尽かそうでないかは一切判断せず、ただただ不快な気持ちが発生する可能性に配慮せよ」と言ってるんですよ。「飲んでもいい」に「基本的に」だの「マナーが問われるのかも」などという留保をごてごてとくっつけているんです。

私はこれ、当たり前の話だと思うんですが、世の中の全ての他人の気持ちに配慮することは出来ません。何を快・不快に思うかという感覚は想像以上にバラエティに富んでいまして、「不快だ!」という言葉は予想外の経路、予想外のタイミングですっ飛んできます。もしかすると、ただあなたが息をしているだけで不快さを感じる人もいるかも知れません。そんなもんに全て配慮していたら、およそ社会的活動と言えることは、本当に何一つできなくなります。

つまり、理不尽な「お気持ち」に対しては、「そのお気持ちはファールライン外なので、配慮する必要もないし配慮する気もありません」と伝えなくてはいけないし、それに基づいて調整しなくてはいけません。それをしないで無制限に「お気持ち」に配慮するのは単なるお気持ち奴隷です。

で、このマナーコンサルタントの人、自分でこういう風に言ってるんですよ。


昔、こういったことをマナーとして言っている人がいたのかもしれません。
私は、九州で生まれ育って年齢は50歳を過ぎていますが、初耳でした。
高齢だから、ということではなく、周囲からそう言われて育ったとか、その人自身の考え方が影響しているのではないでしょうか。

つまり、この人自身「そんなマナー聞いたことねえ」と認識している。つまり、「そこにマナーの必要性はあるのか」という、ファールラインの判定をするべきシーンであるということを、本来認識している筈なんです。

それなのに、この人の結論は


決めつけることなく、今回のケースでいえば、薬を飲む側も、それを不快に思う側も、互いにさりげなく配慮し、受けとめ合える社会になればよいですね。


なんですよね。「そんな配慮必要ねえよバカかよ」と言えないんです。

何故かというと、それはおそらくこの人が「マナーで食っている」側の人だから。新しい「マナー」は、自分達の飯のタネになる可能性があって、マナーが増えれば増える程「マナー講師」は助かるから。「誰も知らなかったけど、実はこういうマナーがあるんですよ」というのは、マナー講師の存在感を示す為の絶好のチャンスだから。

ここで例えば「いやそんなもんマナーじゃないですし配慮する必要ないですよ」と切って捨てることが出来れば、私は「ああ、マナーコンサルタントっていっても理不尽なお気持ちには理不尽とちゃんと言えるんだな」と感心したかも知れません。けどそうではなかった。マナーコンサルタントという人は、理不尽に対して「それは理不尽ですよ」と言えなかった。

そんな人たちが拾い上げてくる「マナー」に、一体どれだけの意味や価値があるのか、と思ってしまいますよね。

無意味なマナーって、こうやって粗製乱造されていくんだなあと。

悪いことに、「マナー」の認識というものは感染します。「あ、こういうマナーがあったのか、知らなかった」と思ってしまった人は、その「マナー」の存在を価値判断に含めてしまいます。マナーを知る前ならなんとも思わなかったことを、「あ、この人マナー違反だな」と不快に感じてしまうんです。

「マナーを増やす」ということは、「不快のトリガーを増やす」ということと同義なんです。

そして、「単に自分の不快を押し付けたいだけの人」は、しばしば「マナー」という棍棒を持ち出してきます。「マナー」と言われると、なんか多数の人の共通認識がそこにあるような気になる。実際には単にその人の不快だけの問題だったとしても、なんか「裏付け」があるような気になってしまうんです。説得力のドーピングです。

だとすると、そんな意味不明な「マナー」が間違っても根付かないように、「いやそのマナーおかしいよ」と誰かが指摘しないといけないんじゃないかと思うんですよ。

重ねて言いますが、「お気持ち」に配慮することが全く不要だとは言いません。しかし、この世の全ての「お気持ち」に配慮することは不可能であって、ファールラインのすり合わせはきちんと行わなくてはいけません。

それを放棄したお気持ち全面降伏勢の言説に、私は価値を感じません。

posted by しんざき at 07:00 | Comment(2) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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