ある事件についてどんな解釈をするのかは個人の自由だが、その解釈によって事件そのものが変わってくる訳ではない。
解釈をすること自体は多分無駄な作業ではないが、実際の所、それら解釈の多くは後付けの評論に過ぎず、その事件を起こした本人の側にはぼんやりとした理由と衝動しかなかったりすることも多い。
ところが、事件を観察する側はとかく「妥当な解釈」を欲しがる。「はっきりした原因」を欲しがる。「ぼんやりとした理由と衝動」だけでは観察者は納得出来ないのだ。安心出来ないのだ。
かくして、「そこにいる犯人」を置いてけぼりにして、観察する側は「犯人探し」を行う。見つかった犯人は、格差社会だったり、アニメだったりゲームだったり、教育だったり銃刀だったりする。もしかするとそれらは従犯なのかも知れないが、いつの間にやら主犯にされている。これらの解釈に基づいて、主犯に対して対策がとられる。
私は、兇悪事件が起きる度に、そんな流れが繰り返されている様に思う。
秋葉原の事件に関する報道を見ていて、こんな事件について思い出した。
Wikipedia:少年ライフル魔事件
少年ライフル魔事件
この事件が、仮に「今」起きていたとしたら、果たしてどんな解釈がくっつけられていただろうか。その解釈は果たして「妥当」だろうか。この「少年」は、ミリタリー雑誌がなければ犯罪に走っていなかったのだろうか。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。ただまあ、少なくとも、この「少年」が犯罪に走ったその要因の中に、ネットやゲームが含まれていなかったことは確実だ。教育や格差社会はどうか知らないが。
さて。今回秋葉原で起こった事件について、様々な対策がとられようとしている。
秋葉原無差別殺人、総務省が犯罪予告検知ソフト開発へ
派遣法順守を要請=無差別殺傷事件との関連憂慮−厚労省
秋葉原殺傷 ダガーナイフ、生産と輸入中止 関の刃物業者
<秋葉原殺傷>歩行者天国の中止 都公安委が決定
さて、これらの対策は果たして「妥当」だろうか。犯罪予告検知ソフトについては、どうも一瞬で撃墜されてしまった様だけど。
2008年06月13日

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あの時メディアは宮崎の部屋に溢れるマンガ本を映し、身体的欠陥も含めて原因を推測し、自称ヲタクを名乗る評論家は共感さえ表明しました。
当時子供だった自分はバッシングが自分に来ないことを祈って身も心も縮めていた記憶があります。
その時はもう殺されてしまった女の子たちへの哀悼の気持ちなんて持つ余裕なんかなかったですね。
今回の事件で若い人たちがあの頃の自分のような気持ちにならないか心配しています。