一言でいってしまうと、田中芳樹せんせーの作品の推移は色々とどうなんだ、って話なのだが。
創作における思想の種類は二つある。手段としての思想と、目的としての思想である。
手段としての思想とは、よーするに演出である。作品中のキャラクター同士の関係、あるいはキャラクターそれ自体を深める為に、キャラクターに思想を語らせる。あるいは作品全体を通したBGMとして、作品に「テーマ」という名の思想を帯磁させる。
この場合の思想は、多くの場合前面に出ることはない。つまり、作品自体の展開にはあまり思想が影響しない。どんな思想を語るヤツであれ、作品の展開次第で死ぬ時は死ぬし、退場する時は退場する。
目的としての思想とは、よーするに作者の主張である。まず最初に作者の「言いたいこと」があり、それを語る手段として創作が存在する。「キャラクターが語る」という形であれ、展開という形であれ、世界観であれ、そこには割と明確な「思想」があり、読者に向かって自分の存在を主張してくる。
作家さんによってやり方は様々だが、こちらの場合の思想は、多くの場合がんがん前面に出てくる。作品自体が「思想を語るツール」であるので、その思想は展開にもべきべき影響してくるし、「作者の代弁者」が仮にいるとすれば、そのキャラクターは基本的には無敵モードである。どの様な経緯を経るにせよ、無敵モードのキャラクターが作品から退場することはない。
「手段としての思想」を描いた作品と、「目的としての思想」を描いた作品には、結構厳密な壁があるんじゃないかという気がする。
いい悪いの話ではないので好みの話に落とし込んでしまうが、私は「目的としての思想」を描くツールとして創作が使われるのが、正直あんまり好きではない。
何故なら、そこには愛よりも先に思想があるから。キャラクターは、作者の愛以上に作者の思想を込められてしまうから。
冒頭で挙げた田中芳樹先生は、かつては「手段としての思想」の使い方が上手い人だったと思う。ただ、いつ頃からか、「目的としての思想」を描いた作品ばかりが増えてきてしまった様な、私はそんな印象をもっている。作者が自分の思想を作品に語らせ始めた様な、そんな印象をもっている。最近の作品はもうあんまり知らないけど。
一方、私が4巻以降の「ゲド戦記」に余りいい印象をもっていないのは、「手段としての思想」から「目的としての思想」に切り替わってしまった様な、そんな印象を受けたからだ。
3巻までのゲド戦記においては、飽くまで「有色人種と白人」というテーマはBGMでしかなく、作品が語っていたのはゲドという人間のあり方だった。一方、4巻以降は「フェミニズム」という思想を語る為のツールとして創作が使われてしまった。私はそんな風に思う。作者が白人であり、かつ女性であることが一因だとは思うけど。
という様な話は、以下のエントリーを読ませて頂いて思いついた。
「作者の思想」と「キャラクターの思想」と「作品の思想」は必ずしも一致しない
・作者の思想多分そういうことなんだろうなあと。つまり、問題は「誰が思想を語っているか」ではなく、「その思想は手段か目的か」ということなんじゃないかと私は思ったのである。
・キャラクターの思想
・作品の思想
これらは実のところそれぞれまったく別物で、当然どれかひとつについての評価をもって他のものへの評価がそのまま規定できるわけではないのに、実際には我々は往々にしてそこに分別をきかせづらい。
思想の扱いは誰にとっても様々難しいが、賢明な付き合い方を心がけたいものだ。そう思う。
ただ、思想が手段から目的化していく人はけっこう多い気がします。
創竜伝の中盤あたりから「田中芳樹的思想」みたいなのが前面に出てきて読みづらくなっていきましたわ。
その辺から買わなくなってったんですけど、それより何よりツヅキモノがちゃんと終わらないから買うのやめたってのもげふんげふん。
創竜伝はホント、途中からどんどん思想色が強くなってきちゃって、いろいろ勿体無かったですよね。キャラ立ては結構魅力的だったと思うだけに、余計に。
ツヅキモノが終わらないのは、ある種の作家さんに共通の病癖です。理由があるんですよ、これ。この辺はまた改めて書こうかと思います。