長いので一応折りたたむ。
没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たち
学校ってバカを治療してくれんのか
学校はバカを治せるほど優秀なシステムじゃない
なんとゆーか、皆様、それぞれちょっとずつ別の論点について語っている様に見えるのだな。
ちょっと切り分けてみよう。
・学歴というツールをどう利用するか
・高学歴は優秀さを保証するか、学歴と能力の関係
・学校で何を学ぶか、何を得るか
これらはそれぞれ全くの無関係ではないにせよ、埼玉と千葉と栃木くらいには離れた問題なので、横着しないで別々に考えた方がいいんじゃないかなあ、と思ったよ。
外野から、思ったことだけを書き連ねてみる。
・没落エリートがどうとかこうとかについて。
没落エリートとは高学歴でありながらも、ビジネス社会において疎外される人々を指す言葉である。これは単純に、学歴というツールを上手く使えていないんだか、使う気がないんだかのどちらかじゃないだろか。社会関係ないと思うんだ。
学歴というのは単なる名札であって、単なる数ある「自分の属性」の一つでしかないんであって、利用するか利用しないかはその人次第ではある。ただ、利用の仕方・あるいは利用する場所については色々と議論の余地がある。
実際のところ、コミニュケーション能力を含めた色々な能力以前の時点で、「学歴」という名札を有効に利用する方法は幾らでもある、と思う。東大だの京大だのという名札だけで食うのも全くもって可能である、と思う。今でも、就職活動の席で「○○大の方はこちらへ」などと別室に招待される会社はたくさんある。
ただ、それにはある程度土俵を選ばないとダメだ。学歴という名札がある程度発言権をもつ、そういう土俵、そういう匂いをかぎつけないとダメだ。その土俵探しを放擲した上で、「学歴があるのに就職出来ない」などと嘆く人は、率直に言って応用力が無さ過ぎる。
学歴は能力を、特に社会に出た上での能力を一概には保証しない。ただ、本人に「能力に対する無根拠な自信を持たせる」という効用は割と強いので、「能力を評価してくれる、能力勝負のフィールドにいきたい」などという志望をもってしまうことはままある。そして、当然のことながら、そういったフィールドでは「名札」の効果が薄い。
私にはどうも、ヒャドやブリザドが得意な人がわざわざ寒冷地方にいって、「私の氷魔法が効かないなんて!」と騒いでいる構図が見える。他に得意な呪文がないのなら、大人しく暑い地方に行くべきなのだ。単なる土俵選びの問題なのである。
で。
・高学歴は優秀さを保証するか、学歴と能力の関係
コメントやブックマークをみていると、「能力」の話に結びつけている人がたくさんいる様に見受けたが、それこそ一概には語れない問題なのであって、そもそも「能力」という言葉の守備範囲が広過ぎる。学歴が保証する能力は多分あるが、そんなに種類は豊富じゃない。
例えば課題達成能力、ある程度の作業に対する免疫、ある程度の集中力と忍耐力、ある程度の目標設定能力、そういったものについては学歴が「保証」してくれる部分はあるだろう。その先は飽くまで個人の問題であって、応用力がある人もいればない人もいる、創造力がある人もいればない人もいる、発想力がある人もいればない人もいる。一概に優秀と言えないのは当然だが、一概にバカとも言えない。
学歴云々とはあまり関係なく、重要なのは以下二点である。
・自分は、自分の能力をどう評価するか。
・他人は、自分の能力をどう評価するか。
自己評価については、「勘違い」という罠がある。いい大学に受かったから自分には能力があるに違いない、と考えるのは必ずしも間違いではないが、能力の方向性には色々あり、大学に受かるのに必要とされる能力は、上記の通りほんの一部分でしかない。そこを意識せず、「総合レベル」を無条件で高く設定してしまうと、後で色々と面倒なことになる。上記の、ヒャドやブリザドをもって寒冷地方に殴りこんでしまう愚を犯すことになる訳だ。
他人の評価については、その人の「評価基準」の問題でしかない。例えば面接の席で言えば、面接の短い時間で判断出来る能力など当然限界がある訳で、それに対して「いい大学に受かっている」という事実でどの程度補正を行うか。楽をしたいのならいい方向に勘違いをしてくれる人を探しましょう、という留保つきの方針があるのみである。
・学校で何を学ぶか、何を得るか
これも人それぞれではあるんだけど。
私が考える限り、「いい大学」というものは、「学ぶインフラ」というものをある程度整えてくれているとは思う。授業だ研究だ優秀な教授だというのもまあそうなんだけど、むしろ人について。
大抵の「いい大学」は、今までその人がもっていた特殊性をはぎとってくれる。中学校高校の頃、「クラスでトップ」だった様なヤツらが、周囲にはごろごろといる訳だ。これは、それまでは望むと望まざるとに関わらず自分に張り付いていたレッテル、「出来るヤツ」というラベルを、「いい大学」はほぼ無効化してくれるということを意味する。
その上で周囲を見てみれば、見る目のある人、聞く耳をもつ人にとっては、周りにいるのは面白いヤツばかりである。上記の通り、人間の能力というものは多種多様だ。自分を越えた水準で、自分にはない能力をもっている人が山といる。社会に出れば当然の様に感じる感嘆、刺激、時にはコンプレックスを、ノーリスクで事前体験させてくれる訳だ。
この意味では確かに、受け入れる素地がある人間にとっては、学校は「バカを治してくれる場所」だろうと思う。山の様に知り合いを作って、火花の様な刺激を受けることが出来れば、大学にいった意味は十分あるといえるだろう。
と、まあ。大学にはバカもいれば頭のいい人もいると思うけれど、どんなことでも概括は出来ないんじゃないかなあ、と。なんだか前提が曖昧なまま色んな方向に話が進んでるなあ、と。なんとなくそんな風に思ったので、長々と書いてみた。
また一つ一つの要素については補足してみるかも。
元ネタを読む限り、どうやら「没落エリート」はなんかの転換期に目立つようになる、実際今目立ってるという話しぶりで、
且つここでのお話としては「その「名札」の使い所はまだまだ健在だ」というのであれば、
あちらの焦点としては「「学歴」という名札を有効に利用出来る土俵を探すための努力の質や量の変化、または学歴的エリートと呼ばれる人種における一部の資質的変化」という所に落ち着くのでしょうか。
ほんとに変化なんてあるの?」「具体的にどういう変化が降りかかってるの?」というリサーチが必要な分野なので私にゃ手も足も出ないお話ですが。
まあ、「土俵を探すための努力の質や量の変化」って部分は、なぜそういう変化が起こったのかという話からめぐりめぐって元ネタの結論に再着陸しそうですが。
ちゃんとリサーチして出された結果なら、その資料と共により興味深いお話として見れるでしょうね。
>あちらの焦点としては「「学歴」という名札を有効に利用出来る土俵を探すための努力の質や量の変化、または学歴的エリートと呼ばれる人種における一部の資質的変化」という所に落ち着くのでしょうか。
>ほんとに変化なんてあるの?」「具体的にどういう変化が降りかかってるの?」というリサーチが必要な分野なので私にゃ手も足も出ないお話ですが。
どうなんでしょう。
リサーチや統計というものをお空のかなたに放り投げて放言すると、「実力主義」であるとか、「能力評価」といった言葉が一時期もてはやされて、「能力のみで評価することこそがいい職場だ」という意識がどっかで伏流する様になった、と。その為、評価する側で「学歴を重視しません」ということを謡う向きが出てきた、と。
その一方で、評価される側の方にも、「学歴が重視されない土俵」というのが魅力的に映るようになってきた、という側面はもしかするとあるのかも知れません。
リサーチは、可能なのかも知れないですが、結構難しそうですね。あまり数値化出来る話でもないので。