あなたが嫌いな人でも妥当なことを言うことはあるし、あなたが好きな人でも間違ったことを言うことはある。あなたはそれを受け入れられるだろうか。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を排除するのは本当に難しい。その逆も然りである。「話者が誰か」というバイアスは、どんな人にも強烈に作用するものだし、しかもその作用を明確に意識するのはかなり難しい。
という様なことを考えた。発端はこちらの記事だ。
失言問題と「マスゴミ」論と医療費問題
ここで注意したいのは、「マスゴミ」バイアスがかかっている場合、逆にあるものが正しく思えがちになってしまうこと。あくまで発端であって、こちらで書かれている本論とは大分外れてしまうとは思うけれど。
正直私は、失言問題自体には殆ど興味がない。その為、以下の話は完全に一般論であり、現在盛り上がっている話題とは一切関係ない、ということは先に書き添えておきたい。
例として分かりやすいから、マスコミ批判の話を俎上にあげよう。
昨今のWebには、既存メディアに対する不信感を顕にしている人が大変に多い。私はマスゴミという言葉があまり好きではないが、Googleでキーワード検索すれば「マスゴミ」という言葉を使ったメディア批判のページが山と積まれる。
既存メディア批判に妥当な部分があることは私も理解している。メディアが「中立」「客観性」を標榜する時代は既に終わっていると思うし、その土壌の上で「公平でないこと」が書かれたとしたら、当然それは批判されるべきだろう。
ただ、「マスコミ嫌い」が嵩じて、既存メディアの言葉を冷静に聴けなくなっている人が余りにも多すぎるんじゃないかなあ、と感じることは、正直、ある。マスコミは公平でないこと、客観的でないことを書くことがあるかも知れないが、それは「公平でない」「客観的でない」という理由で批判されるべき言論である。「これだからマスゴミは」という感情的な言葉で封殺されるべき言論ではない。
そして、マスコミが嫌いだからといって、マスコミが書く数々の妥当な言説に耳を傾けないということがもしあるのであれば、それこそ本末転倒だ。
マスコミは、「マスコミだから」という言葉で批判されてはならない。その言論が妥当であるかそうでないか、という言葉で批判されなくてはならない。私はそう思う。
それとは逆のベクトルの事象も、Webに限らずだと思うのだが、しばしば見られる。
例として分かりやすいから、ブロガーの話を俎上にあげよう。
Webにおける「論客ブロガー」には、多くの固定ファンがつく場合が時折ある。数々の妥当な言論をエントリーし、公平な視点、客観的な視点を様々な言葉に乗せる。そういった人に信頼が集まるのは当然のことだ。
ただ、普段冷静な視点に徹しているそのブロガーも、当たり前だが人間だ。公平でないこと、妥当でない視点をエントリーにしてしまうことだって当然あるし、それは仕方がないことである。
ただ、その人の読者の多くは、その人を信頼する余りその「不公正さ」を読み取ることが出来ない。逆にその人を批判する「妥当な」言説を、よってたかって排除しようすることすらあったりする。
違うのだ。信頼されるのは、その人が「今まで発した言葉」でなくてはならない。その人が「これから発するだろう言葉」であってはならない。それではただの宗教になってしまう。
これは私の偏見かも知れないが、上記論調は特に「Webと既存メディアの対立」が発生した時、非常にしばしば見られる様な気がする。私だってWebの人間だから、仮にWebと既存メディアの間に軋轢が発生した時には、感情的にはWebの味方をしたくなる。ただ、「冷静に考えればどう考えても既存メディアの方が妥当」という論点はいつだって存在するし、そこから目を逸らしてはいけないと思うのだ。
安易な一般化は、だから、危険だ。「マスゴミ」であるとか、「Web言論」であるとか、「若者」であるとか「団塊」であるとか。一般化と総括は、山の様な思考、山の様な言論を、巨大な手でこねくり回してひとかたまりの土団子にしてしまう。「坊主憎けりゃ」の坊主を、非常に巨大な造形で可視化してしまう。思考停止を導くのに、これ以上安易な方法はない。
言葉それ自体を評価するのは、本当に難しい。好きな人の言葉、嫌いな人の言葉を評価する時、我々は「好き/嫌い」のバイアスを可能な限り意識し続けていないといけない。それが至難の業だからこそ、標題の様な極論が、一つのテーゼとして成立する。
繰り返しになるが、冒頭の言葉をもう一度書く。
あなたが嫌いな人でも妥当なことを言うことはあるし、あなたが好きな人でも間違ったことを言うことはある。あなたはそれを受け入れられるだろうか。
「音楽家とは演奏家のことである、という常識を捨てよう。
演奏の腕前は最高であっても、練習法とか歴史とか上下・師弟関係のような、演奏以外の場面で嘘や思い込みや間違いを言うことは良くあることだけど、
“素晴らしい演奏家の言うことだから正しいだろう”という判断が音楽界を狂わせているところがある。
演奏家はただの演奏家であって、音楽家とは音楽にまつわる総合的な能力をそなえている人に言うべきだ」
と言い続けているのですが、誰一人肯定してくれません。
もう分類化を確定してしまった人は、考え直すのは難しいみたいです。
>“素晴らしい演奏家の言うことだから正しいだろう”という判断が音楽界を狂わせているところがある。
レッテル効果は、正直否定してもどうしようもないんだろうなあと思ったりもします。
なんとかバランスよく付き合うしかないんだろうなあ、と。
ただその立場を考慮する際にも、その発言者の立場に絡む属性に対する偏見だったり見た目や所作に対する印象なんてのも影響してややこしくなるんですが。
>ただ、発言者の「立場」は発言の内容と切り離せる・切り離していいものでもないと思います。麻生首相や田母神元幕僚長の発言がなんで叩かれるのか・騒ぎになるのかってことですね。
んー、それはそうですね。立場が関わってくる様なパブリックな発言・言説の場合には、多分また話は変わってくるんだと思います。
立場というものを(読む側が)どう利用するか、という点については、またややこしい話であると思うので改めて考えてみます。