2009年01月22日

「過去の日本」という感じ方について、とか。

大統領就任演説を読んで

幾つか考えるテーマがありそう。
「われわれはかつて・・・であった」だから「これからも・・・であらねばならぬ」が自動的に導かれ、その(よくよく考えるとぜんぜん論理的でない)ロジックに国民の過半が感動的に頷いてしまう、というようなかたちでアメリカは国民的統合を果たしている。
私たちにはこれができない。
「過去の日本」はどうであったのか、「未来の日本」はどうあるべきなのか、という「時間軸」の上にナショナル・アイデンティティを構想するという発想そのものが私たちには「ない」からである。
1868年には「ご一新」があり、1945年には「一億総懺悔」し、何かいやなことがあるとすぐに「改元」し、「終わったことは水に流し」、大晦日を過ぎると借金がチャラになるような生活倫理で生きてきたので、過去と未来を繋ぐ壮大な「物語」というのが「ない」のである。
やや違和感。

これはつまり、他国との相対化なしに、「かつてこうであった日本人」「だから今もこうであるべき日本人」という通時的な論法が通用するには何が必要か、という話だ、と思う。

そして内田先生は、それを心理的な連続性に求めている。つまり、「かつての自国民」に共感出来るか、かつての日本人を「我々」と捉えられるか、という問題に落とし込み、日本にはそれが欠如しているからこういう論法は使えない、とおっしゃっている。多分。


違和感、というか疑問点は二点。

・日本に「通時的なアイデンティティ」が存在しないのは、本当に「チャラにしてきたから」なのか。
・フランスなりの他国には、本当に「通時的なアイデンティティ」が存在するのか。



まず、過去の日本と心理的な連続性をもっていない日本人が珍しくない、というのは多分事実だろう。私だってもっちゃあいない。

私達は、一般的に、例えば「戦国時代の人々」を「かつての我々」とは捉えない。「江戸時代の人々」をさえ、「かつての我々」とは捉えない。関が原で刀槍を手に駆け回っていた人々、金閣寺や姫路城を建設した人々は、一部の例外を除いて、我々にとって歴史上の人物、つまりは物語の中の人物である。


当たり前っちゃ当たり前じゃないだろうか。そもそもその頃、今と同じ「日本」はなかったのだから。


アイデンティティをもつ対象が国家である以上、「かつての日本人」を我々と捉える為には、そこに「統一された日本」がなくてはいけない。そして、日本が曲りなりにも統一国家であった時期というのは、二千年くらい前から歴史をひっくり返してもそれ程長くない。少なくとも明治以前の数百年くらいの間(当然江戸時代も)、日本は大小無数の勢力が凌ぎを削りあうフィールドだった。

これはどちらかというと、「アイデンティティをもつ範囲はどこか」という話だ。「おらが里」という地域的なものに通時的なアイデンティティをもっている人は、今でも別段珍しくないだろう。そうでなければ吉良義央は地元で祀られないし、大河ドラマに地域的視聴率の差も出ない。

それは勿論「日本という国」に対してのアイデンティティではないし、だから悪いという話でもない。ただ単に、日本という国が歩んできた歴史が、国家への通時的なアイデンティティを作る類のものではなかったという、それだけの話だ。


ただ、これ、日本にないということが事実だったとして、他国には本当にあるんだろうか。ここがよく分からんのだけど。


国という単位、境界が滅茶苦茶だったという点では、ヨーロッパだってアフリカだって人後に落ちない。なにしろ向こうには、国と国の間に海岸線がない。ある国の王族が他の国の王族だった、ということも日常茶飯事の世界である。

大した根拠はないけれど、彼らにとっての「200年前の自分達」は、我々にとってのそれ以上に、心理的な連続性が薄いんじゃないのかなあ。

そういった国に、「国家へのアイデンティティ」は当然あったとして、それはやっぱり通時的なものとは限らず、何かまた全然別なものなんじゃないかなあと、私はそんな風に思う。アメリカの様な例の方がむしろ世界では特殊なんじゃないんだろうか。まあ、その国の人に実際聞いてみないと分からないことだろうけど。

で、そこから考えると、「他国に引き換え」論法が必要不可欠な国というのは、別に日本に限らないというか、全然珍しくないんじゃないかなあ、という気もする。これも大して根拠はないけれど。


まとめると、私が言いたいことは二つ。

日本が「通時的なアイデンティティをもっていない」ことは、どちらかというと歴史上の経緯によることなんだから気にする必要は別にないんじゃあるまいか、ということ。

そして、国家としての通時的なアイデンティティをもっていない国というのは、多分別段珍しくもないんじゃないだろうか、ということ。


取り敢えず今日はこれくらいで。
posted by しんざき at 12:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
学校教育が郷土愛も愛国心も抜きにして「人間(じんかん)至る所に青山有り」の教育で、日本人と言うより世界市民意識を持つよう努力してますからね。
また、
地域共同体の子ども会から老人会までの組織と学校教育は、対立しているわけではないけど噛み合ってないし(一貫教育でない学校は卒業したら教育方針現場編が一新される)、1970年代よく言われていた「子どもの躾は学校で」も学級崩壊で力を失いましたし。

あと「日本」という国号が「中国から見て日の出方向」という意味でつけられたのだとすると、なんで中国中心の国号を自ら名乗らないといけないんだ!と一部の右翼からは不評なのは、たまに聞きます。
Posted by てんてけ at 2009年01月22日 16:00
>てんてけさん
>日本人と言うより世界市民意識を持つよう努力してますからね。

教育の方向性の問題、というのはあるのかも知れませんね。ただ、その割に語学教育が色々とアレですが。

>なんで中国中心の国号を自ら名乗らないといけないんだ!と一部の右翼からは不評なのは、たまに聞きます。

そこまで大陸を気にせんでも。
Posted by しんざき at 2009年01月24日 15:29
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