とまでは言い過ぎかも知れないが。
■エンディングで震えるほど感動したゲーム
レスの流れを見ていると、根本的な部分で微妙に話がかみ合っていない部分がちらちら見受けられる様な気がしてちょっと興味深い。
多分、「EDに対する感動」という話題において、次の二つがごっちゃになっている部分があると思う。
1.ゲームのフィナーレ、エンディングの内容に対する感動
2.「あるゲームをクリアした」ということ自体に対する感動
この二つは勿論無関係ではなく、双方が双方を補完している部分もあると思うけど、根っこのところでは多分全くの別物だ。
1番の感動は、要するに小説を読むことで得られる感動、映画を観ることで得られる感動と同質のものだ。視聴してきた物語の見事な帰結、素晴らしいフィナーレ。RPGやアドベンチャーゲーム、特にここ十年くらいのRPGは、こちらの出来で評価されることが少なくない。
2番の感動は、出来合いの言葉に言い換えるとすれば「達成感」ということになるだろう。何かに力を注ぎ込んで、それが成就する時の感動。勉強でもスポーツでも仕事でも、色々な方面で得られるものだけれど、「遊び」という枠でくくる限り、これはゲームならではの感情だといってしまっていいと思う。
で、以下は好みの問題というか、放言なのだけど。
私に関する限り、1番の感動は決して2番の感動を越えることがない。もう少し言ってしまうと、エンディングに工数かける?アホか、スタッフロールでも流しとけと思う部分すらある。エンディング過激派と称されても構わない。
以前から何度か書いているが、私はゲームは「物語」になってはいけないと思っている。ストーリーとか演出、物語の見せ方という受動的な楽しさの土俵で勝負しようとすれば、「ゲームという娯楽」の強みを殺してしまうと思っている。「物語の内容と帰結」という土俵で勝負する限り、ゲームは決して漫画や映画に勝てない。
「娯楽としてのゲーム」の強みとは何かというと、当たり前だが「遊びであること」であり、「参加出来ること」であり、もうちょっと言うと「努力出来ること」である、と思う。少なくとも私はそう思う。
テレビを観る為にはスイッチを入れてチャンネルを合わせればいいし、音楽を聴く為には再生ボタンを押せばいい。ゲームを遊ぶ為には、もうちょっと面倒な手間がかかる。電源を入れてタイトル画面をぼーっと見ているだけでは、そこから何の楽しみも得ることが出来ない。
ゲームをするにはコストがかかる。そして、様々な形をしたそれらのコストこそが、ゲームの楽しさのまさに中核だ、と思うのである。
例えば、STGでの弾避けの苦労。いわゆるRPGで、強敵に対する戦術を練ったりレベルを上げたりする苦労。AVGで泣きながらコマンド探しにキーボードを打ち込む苦労とか、「イロイッカイズツ」の意味がさっぱり分からなくてキレそうになる苦労といったものもあるだろう(最近はないかも知れないが)
そういった種々雑多な苦労と、それら一つ一つが報われる喜びが、ゲームの楽しさの中核だと私は思っている。
そうでなければ、ドルアーガのあの簡素なスタッフロールが、あそこまで人々の印象に残る訳がないではないか。重要なのは、「コストが報われた」ということ自体であり、「物語がどの様に終わったか」ではないのだ。
そこから考えると、エンディングは「区切りとしては必要不可欠」ではあるかも知れないが、少なくとも「それ自体を目標として遊ぶもの」ではない様な気がする。見事なエンディングで物語を完結させるよりは、そこに至るまでの達成感を最大化させることに力を注いで欲しいと思う。
まあ、時代には逆行しまくった考え方なんだろうが、このブログ自体どうなんだよって話だから別にいいや。
だから、エンディングは「達成感」を引き出すための重要な小道具でこそあれ、その内容自体でゲームを評価する様なもんじゃないんじゃないかなー、とか思うのだ(一応断っておくが、結果的にストーリーやエンディング「も」評価される名作というのはたくさんあると思うし、それに文句をつける気は全くない)。
我ながら物分りが悪いが、過激派の過激派たる所以だと思って見逃していただけると幸いである。
以下は関連エントリー。
レトロゲーム万里を往く その61 「映画を目指した」ゲームの災厄
レトロゲーム万里を往く その24 〜エンディングの呪縛〜
レトロゲーム万里を往く その27 〜エンディングの呪縛・3〜
2009年04月02日

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ゲームのエンディングっつーか、物語性について
Excerpt: ちょっと、不倒城さんのエンディングの内容などどうでもいいのだーー!を読んで思った事をつらつらと書いてみる。あちらを読んで頂ければ判ると思うが、至極真っ当な事を書かれていると思うので、特に反論という意味..
Weblog: 口からホラ吹いて空を飛ぶ。
Tracked: 2009-04-03 01:43
2.によって1.が引き立てられた「ゲーム」は多数あれど、その逆は皆無といっていいでしょう。例えば、DQ5のパパス王から引き継がれた悲願の物語は、核となるモンスターを仲間にするシステム等の優れたゲーム性がなければ、恐らくは「DQシリーズ初の失敗作」としかならなかったわけで。
等と言いつつ、Airでマジ泣きさせて頂きましたが、あれに関しては完全に「お話」だけで持ってかれた感があって、「ゲームをクリアした」という感動ではなかった、ということでひとつお願いしたい所存。
>エンディング過激派
派閥名に「エンディング否定党過激派」を推挙します。
なんか書き始めたら長くなってしまったんでブログでエントリにしてしまいました。
総ツッコミフルボッコ歓迎だったりしますんで冷やかしにでも覗いて頂けたら幸いです。
脱衣麻雀は1と2のどっちに相当するんでしょうね
アレは別にエンディングは重要じゃなくて、途中途中の一枚絵を観る為に遊ぶもんなんじゃないですかね?
>NOBIEさん
>あれに関しては完全に「お話」だけで持ってかれた感があって、
多分、サウンドノベル系列のゲームについては、上の話は当てはまらないと思います。
習得したアビリティを流して
達成感を盛り上げてくれる。