奥様の指摘によって気付いたこと。
最近、息子さんが「また」という言葉を使える様になった。例えば、夕飯前におもちゃから離れざるを得なかった時、「でんちゃ、またあとねー」とか。遊びにきていた知人が帰宅する時に「またねー」とか。
で。文脈的には、これらの言葉は「もっと」が使われていた場面で使用されている様な気がする。何か物足りない時、何か遊び足りない時、彼は「も、も」とか「もっとー」とか言う。この欲求は即時的なもので、基本的にその場で満たされないとあんまり満足出来ない。泣く。
それに対して、「また」は。この場合の意味としては「また欲しい」「また遊びたい」という意味、つまりはonce moreとかagainの意味で似ているが、当然のことながらその場で満たされなくてはいけないものではない。明日でも遊べる。明日でもいい。
「もっと」は即時的、「また」は非即時的。
つまり、息子さんの中に「時間」の概念が出来始めた様な気がする。多分長期記憶野とか、その辺の何かが活発に動作し始めた証拠の一つなんだろうと思うんだが、この辺私は門外漢なのでよく分からない。とにかく、「今遊べなくても後で遊べる」という概念が息子さんの中に出来てきたことは、どうも確かな様だ。
人間は、どうやら、「後で」が理解出来る様になるまでそれなりの時間を必要とする。今あるものは、基本的にはそこにあり続けるんだ、ということが理解出来る様になるまでそれなりの時間を必要とする。
そこから考えると、「また」と「もっと」って語源的に何か関係あるんだったっけなーと思ったんだが、その辺学生時代の専門であった筈なのに完全に忘れている。あれーどうだっけ。「もっと」は多分「勿と」だよ・・・な?ううん、思いだせん、というか記憶がないってことは関係ないんだろうか。機会があったら調べてみる。
とりあえず今日おもったこと、それくらい。
2009年07月03日

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