やまなしなひびさんの記事を読んで、ちょっと思ったこと。
「実はそのキャラ、死んでいなかったんですよー!」の果てに
すいません、テーマである『宇宙をかける少女』については私はあまり知らないのですが、よくある展開としての「実は生きてました展開」について。
私自身は、「実は生きてました展開をやるくらいなら最初から死なすな」という考えの持ち主なのですが。キャラクターの「死」というのは、演出として強力であるが故に、お話を作る側から見ても非常にデリケートなツールではあるみたいです。
以前、「実は生きていた展開ってどうして好まれるのかね?」って話を知り合いの編集者さんと議論したことがありました。主に漫画の話ですし、作り手の側からの視点ですが、多分共通点はあるんじゃないかと思います。幾つか箇条書きにします。
・キャラクターを本当に死なせてしまうと、作品(というか読者層)によってはファンからの声がエラいことになる場合がある。時節柄、ファンの声を完全にシャットアウトすることは難しく、作者さんに対するプレッシャーを考慮する必要もある。
・「実は生きていた」という展開を嫌う人が多いことは分かるが、「本当に死んじゃった」という展開に対する風当たりよりは遥かに弱い(勿論読者層によるが)
・「実は生きていました」という展開を「よくある」ものにしておくことには、上記の様な風当たりを抑止する意味もある。実は生きているんじゃないかと思わせることで、「どうして死なせるんだ!」という批判を抑える、というような。
・なんだかんだで「退場したキャラクターの再登場」という展開を好む読者も多い。アンケでも好意的な声の方が多い(個人的には、「また「実は生きていた」展開かよ」とか思う人はわざわざアンケート出してないんじゃないかという気もするけど)
・キャラクターを死なせるということは、ストーリー作りの上でも重要な要素、というか障害になる。特に連載が長くなることが予想される漫画では、後から色んなストーリーや展開を考え、話を繋げていく必要がある。その時に「このキャラがいればこういう展開に出来るのに」と思っても遅い。
・その為、「人気があって、編集側としては今後も続けていって欲しい漫画」であればある程、キャラクターは死なせにくい。編集さんの側から、「後でこのキャラ必要になるかも知れないから、死んだかどうかよく分からない様にしておきませんか」と持ちかけることも多いそうである。
・というか、作者さんの方で「その後の展開」をよほど綿密に考えていないと、編集としても「本当に死んじゃった展開」に賛成しにくい。行き当たりばったりで「このキャラ死なせちゃいますか」という提案にはまず反対する(逆に、終了が見えている漫画ならそこまで反対しない場合も多いそうである。ある程度引き伸ばされた長期連載の漫画で、キャラがぽこぽこ死に始めた場合、そろそろ終わりかなと推測してほぼ間違いない)
まあ、作品とか展開とかによって全然変わる話なので、一概には言えないけれど。一応、知人と話して出てきた要素は上の様な感じ。
ちなみに、風当たりの話では、ファンだけではなくファンの親とかその他諸々のヒトビトからの風当たりも多いんだそうです。「うちの息子が好きだった○○が死んで息子が落ち込んでいる!どうしてくれる!」とか。「子供が触れる漫画で人を死なせるとは何事だ!」みたいなの。実際何度もみたらしい。昔からよくある話みたいだけど。
上記の様な事情をふまえると、「キャラクターの死」から逃げず、そのキャラクターの完結という展開をきっちりと描き切る作品は、どんな分野でも偉いなーとつくづく思います。風当たりのある環境なら特に。
逆に、ただ演出上有効だからというだけの理由で、安易に「実は生きてたよ展開」を多用する作品は、少なくともストーリー的には、個人的な好みから外れます。
あ、別にFF4の話とかしてないですよ。FF2の展開を見習え、とか思うこともたまにありますが。
ちなみに、今回は「実は生きていた展開」に絞ったお話でしたけれど、「作り手にとってのキャラクターの死」というテーマだとまた色々と深い話になりそうです。多分その内書きます。
2009年07月15日
この記事へのトラックバック
となれば、その時点でキャラに感情移入しまくりで、かつ「死」そのものに涙した訳ではないので、生きていてくれたほうが嬉しいし後味も悪くないと感じるわけです。
「死」そのものを感動に仕立てあげようとして見ている側が置いてけぼりになってしまうのは、作り手側のみ、キャラへの感情移入が済んでしまっているからというのもあるのではないでしょうか。「俺だったらこの子が死んだら泣く」みたいな。
セーラームーン(無印)のラス前、セーラー戦士が倒れていく展開で有ったそうですね。
「うちの娘が泣いてしまった、どうしてくれる」とか。
>>1〜3までメインシナリオは全部「実は死んでませんでしたー」なキャラが犯人
クロマルさん、かまいたちのメインライターはミステリ作家で、ミステリにおいては
「バールストン先攻法」と命名されていて、名作でも使われているテクニックなんです。
閉鎖状況で次々と人が殺されていく条件で、それを使わないと自然と犯人が判明しますから。
"1〜3まで"ということであれば、確かにバカの一つ覚えみたいですけど。
”しぼう”から”せんとうふのう”に置き換えることで、
「死んでる奴が平然としゃべり出す」
「仲間が死んでもレイズで生き返らせたらよくね?」
といったイベントにおける不合理さを解消したりして、
システムとストーリーの整合性には気を遣っていましたね。
…ストーリーの出来については置いといて。
画面のアップによるミスリーディングは当たり前で重要キャラのピンチではご都合主義の連続でした。
最悪なのはマリコとルーシーの戦いでミスリーディングが3回以上連続して描かれ、読んでてウンザリしたのを覚えています。
浦澤直樹もそうですけど、「姑息な虚仮威しは辞めろ」と言いたいです。
それから、最近はこうした風潮への逆風か、「あそこで死んでれば面白かったのに」なんて意見もたまに聞きます。
ただ、「キャラを殺すことのリスク」を無視してそういった発言をするのはどうなのかな、と思いますけど。
デスノートにしたって第一部のラストは衝撃と好評を持って迎えられましたが、おかげで第二部はパワーダウンしちゃいましたし。