熊を見たことがある。
10年近く昔の話だ。当時の私には若干の放浪癖があり、ふとした拍子に何の脈絡もなく遠出をすることが珍しくなかった。そんな折、「そうだ、オコジョを見に行こう」と思いついた私は、バイト代と最低限の着替えだけをリュックに放り込んで、何の下調べも大した準備もなく長野県は上高地に足を運んだ。山を舐めていると言わざるを得ない。
ちなみに、私が上高地という地名を知っていたのはこの絵本の舞台だからであって、それ以外の理由は何一つない。
オコジョには逢えず、熊に逢った。
季節は夏であった。私は確か、明神池というところを過ぎて、徳沢という方へ向かうルートを歩いていた筈である。あんまり暑くなくて助かるなーと思いつつ、いかにもゴツゴツとした林間の坂道をてくてくと歩いた。周囲に人は殆どいなかった。大体の観光客は河童橋というところで留まるらしく、私の様な無謀な性格をしたぽっと出の含有率は少なかったのだろう。
ちなみに、私がどの程度無謀な性格をしているかについては、やや筆を逸らして記すべきエピソードがある。
これは自慢の意味で書いているのだが、学生時代、修学旅行で20人程をまとめて迷子にしてのけたことがある。私は「道が分からなくても特に気にせず、自信満々でずんずん前を歩く」というとても迷惑なキャラクター属性を持っている為、修学旅行の自由行動の際にも、「まあ多分どこかに向かっているんだろう」という程度の考えで気楽に後ろについてくる、カルガモのごとき同級生を引き連れてくてくと歩いた。
「ところでしんざき、どこに向かっているんだ」という問いに対して「知らん」と答えた時には、現在地どころかホテルへの帰り道すら分からない有様である。いや、責められる責められる。別に私が方向音痴なわけではなく、単に目的地を設定せずに歩いてもそれ程疑問を持たない性格をしているだけであること、誤解のないよう申し添えておきたい。
そのような次第であるからして、帰りの時間もそれ程考慮せず、オコジョはどこかにおらんものかなーときょろきょろしながら林間の道を歩いていると、ふと目に止まった木の脇に黒々とした影が佇立している。はて、と足を止めて観察しているところ、どんよりとこちらを眺める、いかにもくまくまとした熊がそこに佇んでいた。正直ちょっと驚いた。
彼我の距離がどの程度のものだったかは、正直よく覚えていない。ただ、25メートルプールの長辺よりは間違いなく短かったことは確かである。下手をすると短辺くらいの距離しかなかったかも知れない。
私にはあまり熊に関する知識がないので、その熊の種類が何であったかは断言出来ない。乏しい知識と記憶によると、確かヒグマは北海道にしか生息しないものであった様な気がするのでヒグマではなかったのかも知れぬ。グリズリーはカナダ。パンダは中国。白熊は北極。ぺんぎんは南極。それぞれ居住区域が遠くかけ離れているので、理論上私が遭遇した熊はグリズリーでもパンダでも白熊でもぺんぎんでも無かったという論理的な結論が導き出せるのであった。まあ、とてもでかい狸だったという可能性を除外すれば、多分ツキノワグマか何かだったのだろうとは思うのだが。
通常熊とばったり遭うと危ない、という話を良く聞くが、あの熊には私と遭遇して驚いたという雰囲気が全くなかった。思うに、私の方は熊の存在に全く気づいていなかったが、向こうはのほほんと歩いている私の存在にとうの昔に気づいていたのではないだろうか。情けない話もあったものである。
私はその場に突っ立ったまま、しばらくぼーっとその熊を眺めていた。一見冷静沈着な様に見えるかも知れないが、なんということはない。単に唖然としていたのである。私よりももう少し感性が練磨されている人だったら、何かしらのリアクションは示していたところであったろう。これを読んでいるあなたも、熊に遭遇して冷静に死んだフリを選択したことの一度や二度はあるに違いない。ただ、当時の私の鈍さには天文学的なものがあり、「死んだフリ」どころか「めくりで飛び込んで昇竜につなぐ」という程度の対処法すら思いつかなかった。せめて飛び道具で牽制くらいはしておくべきだ、と当時の私に小一時間言い聞かせたい。
長い時間のような気もしたが、多分実際には30秒も経っていなかっただろう。しばらくじろじろとこちらを見下ろしていた森の熊さんは、やがてのったりと踵を返すと、のたのたと林の奥に戻っていったのである。
そしてアレから十年経った。ずっと昔同じような体験談を書き記したことがあったが、ふと今の記憶で書き直してみたくなった。とりとめもない文章になったが、まあたまにはこういうのもいいだろう、と私は自分自身にいい訳をするのである。
当時の熊が今も生きているかどうかはよく分からないが、上高地には今でも熊が出るのだろうか。その内また足を運んでみたいなあと思いつつ、熊へのリベンジマッチはまあやめておいた方がいいだろうか、とも考えたりする夕刻なのだった。
2009年09月10日

この記事へのコメント
まずは波動拳かと
Posted by くどう at 2009年09月10日 19:19
待ちガイルでおk
Posted by 殺人パンダ at 2009年09月10日 22:05
竜巻旋風脚で飛び込むのはどうでせう?
Posted by NOBIE at 2009年09月10日 22:09
スクリューで吸い込めば万事解決、まで読んだ
Posted by しんざき at 2009年09月10日 23:15
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