タイトルで完結。
以下はちょっと雑然とした文章になる。
「親の責任」って言う言葉はよく聞くが、それについて親から見た言い換えっていうものをあんまり読まない気がする。
親の責任って何かというと、多分、「ある人間の一生を、いとも簡単に左右してしまう立場にある」ということを自覚することだ、と思う。
命名がその最初の機会だと思うけれど、親が子供に接する時というのは、常に「この子のこの後の人生、これで変わるかも」という機会の連続だ。いや、普段はそこまで深く考えてたら子供と遊んでられないけど、つきつめるとそういうことだ。
自分の言葉が、ずっと後まで子供の記憶に残るかも知れない。
それを思うと、子供に語りかける為には一種の覚悟がいるし、そんじょそこらの覚悟で名前なんてつけられない。一生背負う物が荷物になってしまうとしたら、それこそ子供に顔向け出来ない。
ちゃんと挨拶出来る子になって欲しいなあ、と思う。ちゃんと感謝出来る子になって欲しいなあ、と思う。私は、私なりの「ちゃんとした」人というビジョンを漠然と持っていて、出来れば息子さんに、楽しく過ごしながらも、だんだんとそういう人に近付いていって欲しいなあ、と思う。それは親のエゴなんてものじゃないし、親の押し付けってものでもないと思う。多分それこそが親の責任だ。
親のどんな一言も、どんな行動も、息子さんの今後にずっと残り続けるかも知れない。それも分かっていて、そして親が失敗することもこれから何度もあるだろうけど、私は努力するつもりだし、多分息子さんも、色んな障害を乗り越えて健全に育ってくれるだろうと思う。そう信じているし、そうなる様に頑張る。
息子さんが生まれて、もうすぐ2歳5ヶ月になる。よく走るし、よく喋る。私が帰っていくと、けらけらと笑ってとびついてくる。とびつかれたら全力で遊ぶ。
たまに、叱られる。叱られるとしゅんとする。しゅんとする姿を見るのはあまり好きではないけれど、それでも私は叱ろうと思う。
2009年11月27日

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なので、結婚はしないと決めています。
>親の責任って何かというと、多分、「ある人間>の一生を、いとも簡単に左右してしまう立場に>ある」ということを自覚することだ、と思う。
躾という名のもとの暴力に多くの子供たちが傷つけられているのは悲しいことですね。
子供の視点をもつと、親は絶対的権力を持つ君主。どんなに世間の尺度に合わないことでも受けれざるを得ない。この親という権力の怖さを心の奥底に持っておくことは大事だと思います。逆にいえば、それさえ自覚していれば、多少間違ったことをしても大丈夫だと。。。
僕は、親から”ちゃんとしなさい”というメッセージを受けすぎて疲れてしまったくちなので、子供には、ちゃんとしててもしてなくてもいいから、周囲の人と可能な限り調和をとりつつ、一度きりの人生を楽しむんだよ、というメッセージを送っています。ちょっとゆるいですかね。