RPGのラスボスについての一意見。一言で言うと、「ラスボスの設定とか、下手にひねるくらいならゾーマ様みたいな完全悪の方がいいんじゃね」という言葉になる。
あんまり具体的な名前を出すとカドが立ちそうだな。いやまあゾーマ様については出てしまったが、後は一般論ということで。
例えばRPGで、敵の大ボスについて色んな「背景」が語られることは多い。立場とか、出自とか、好きな食い物とか口癖とかウボァーとかそういうアレだ。
で、そういった中で、「ただ悪いだけのヤツではない」という演出が為されることは結構ある。例えば悲惨な過去があったりとか。陰惨なトラウマがあったりとか。そういった様々な事情が、劇中で語られることは割とある。
キャラクターとしては、それでよい。劇中、様々な形で「敵の大ボス」に肉付けがされていく。キャラクターとしての厚みが増していく。ただ、この際、大ボスを「単純に悪いヤツ」でなくすということは、同時に「全否定出来る対象ではなくす」ということも意味している。
好みの問題もあるだろうとは思うのだが、個人的には、「勧善懲悪という陳腐なストーリーからの脱却」という効果を狙ってラスボスに肉付けを行った時、上手い効果が出ることは少ないような気がする。
一般的なRPGの最終的な目的は、大体の場合「ラスボスを倒す」ことである。ラスボスが強大であればあるほど、プレイヤーのテンションは上がる。
これに対して、「ラスボスにもいいところがあるんだよ」的な演出をすることは、少なくとも一時的には、プレイヤーのテンションを下げることになる。強いぜー、倒すぜー、という気分に水をさす。
例えばこれが漫画なら。主人公は、「敵にも色々な事情がある」ということを飲み込んで、超克して、更に人間的に成長することがドラマ性を増したりする。それはいいのだ。王道だ。
ただ、一般的なRPGでは、主人公の半分はプレイヤーで出来ているのだ。普通のプレイヤーは、「敵にもいいところがある」という事情に真摯に悩んで人間的に成長したりはしない。単にテンションを下げるだけだ。これは、主人公視点とプレイヤー視点がある程度重なるゲームである限り、決して解決出来ない問題だ。
つまり、多くのRPGにおいて、中途半端に勧善懲悪からの脱却を狙うことは却って逆効果になることの方が多いのではないだろうか、ということになる。
「勧善懲悪」というストーリーは、脚本として陳腐に感じてしまうのは分かるけれど、少なくとも潔く、分かりやすく、しかもゲーム向きだ。これをひねるとしたら、プレイヤー視点を完全に主人公から切り離して客観視点にするか、ゲームのシナリオ自体を根底から「勧善懲悪」というスキームから外すという、どちらかの操作が必要な気がする(そして、そういった操作をしてストーリーが高評価を受けているゲームもたくさんあるとは思う)。
私自身は、RPGにおけるラスボスは「巨悪」でいいと思う。中途半端に漫画や小説を目指してドラマを深めようとしても、むしろプレイヤーのテンションをダダ下げるだけの結果に終わってしまうのではないかなあ、とも思う。変にひねって外すくらいなら開き直った勧善懲悪の方がずっといい。
勿論好みの問題もあるだろうし、徹底的にひねった上で物凄いストーリーになったというゲームだってあるとは思うけど。ヘラクレスの栄光3とかどうだったんかな。
取り敢えずまとめておく。
・一般的なRPGにおいて、ラスボスに様々な「ただの悪役ではない」という設定を付加するのは、「勧善懲悪からの脱却」ということを意図しているような気がする。
・しかし、構図自体は既存のRPGと同じまま、中途半端に勧善懲悪から脱却すると、却ってプレイヤーのテンションが下がる気もする。
・ゾーマ様みたいに、徹底的に全否定対全否定という構図だったりする方が、RPGとしては綺麗にまとまることが多いんじゃないだろうか。
・全然関係ないが、バラモスが中ボスっぽく見えてしまうのは顔がピッコロ大魔王の部下と同じに見えるからではないか、とか思うのだがどうだろう。バラモスさんかわいそうです。
今回はそれくらいで。
2010年02月04日

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バラモスが中ボスっぽく見えてしまうのはドラクエ4コマ漫画劇場世代からすると、公式アンソロジーである同作品で散々「カバ」呼ばわりされた結果、ファンの中に「バラモス=カバ」なイメージが完璧に定着したせいな気もします
わたしも「絶対的悪なラスボス」の方が好きです。理由は「ラスボスにも実はこういう事情が」という部分はたいていは終盤から解る情報なために、出し方次第では「散々酷い奴だ的な演出をしたのに、今更そんなこと出されても困る」ないし、「ここまで来ておきながら今更同情を買う気か!それとも言い訳か!わたしの戦う気持ちをそぐな!」と、しんざきさんと同じですね
FFのボスは、背景が語られたりしますが、ほんとにラストバトルになると、ボスの意識もなくなり自然現象みたいなものと戦うことになるのが興味深いです。
SFCのTOPとかそうでなかったかな。もううろ覚えだけど
ストーリーのあるアクションではどうでしょう
MGS3のボスで感動したんですがあのプロットなら
尊敬すべきラスボスがRPGでもいける気がするんですが
ただの勧善懲悪と思わせてっていう構成の仕方もうまいけど、ラスボスの背景が単にテキストで述べられるだけじゃなく、過去のプレイヤーの体験でもあるって所で感情移入しちゃうんだろうな
だから悪の大ボスが、プレイヤーの与り知らぬ過去において、
可哀想な目に遭ってたとしても、製作裏話を聞かされるみたいなものだから、
なんだか置いてけぼりを食らったような気分になるような気がする。
(逆に、ラスボスが序盤から主人公と同じ時間軸で苦しんでくれたりするとわかりやすい)
それと、ラスボスに悲惨な過去を背負わせて、言ってることに説得力を持たせようとしても、
結局、若者主人公側による青臭い綺麗事にある程度負けちゃうことが運命づけられてるから、
ラスボス側の言い分も、論破されやすいようなトンデモ逆恨み理論にならざるをえず、
あるいはコンプレックスやトラウマといったラスボスの心の弱さを見せることになり、
なんだかんだで「偉大な悪」の存在感が低下してしまいやすいんだろう。
そこんところ考えると、やっぱりゾーマって完璧だなあと感じる。
悪なりに何一つ心に負い目のないことの強さ(魔王軍の戦略上の不手際含めて)
ってのが、こいつは凄い大物であるという実感に繋がってるんだと思う。
殊更、シングルプレイのゲームにおいては、プレイヤーを褒める、気持ちよく持ち上げる事がもっとも必要だと感じるので、この記事には大賛成です。
ただ最近そればっかで本当に飽きた。
ゲームに限らず漫画もそうだよね。
仲悪かった全組織が一致団結して巨悪に挑むような熱い作品がそろそろ見たいよ。
関係ない奴に危害加えているんだから破たんした理屈にしか
ならないわけでそれならまだ勧善懲悪のほうがすっきりしますね。
ゾーマは(これはゲームではないんですが、)ダイの大冒険の大魔王バーンのように「超越悪」ですよね。もう生まれた時から、その身の属性が(大抵は人間にとって)悪で、人間の理解の範疇の外。
新桃太郎伝説のカルラのような、
「富と名声と権力が欲しい!そのためならば他者を一顧だにしない」という「悪人」のラスボスも好きです、自分は。
厳密にはラスボスではないけどw
一応同情すべき過去はあるんだけど、それ以上に
最期まで絶対的な悪を貫く姿が素晴らしい。
ま、この考え方では刑の執行者がプレイヤーになるので危ない人が量産されそうですが。
これは「普通のプレイヤー」なのか?
人間的に成長するかどうかはともかく、こういったことを真摯に考えるのが「Role-Playing」の楽しみだと思うけど。自分は。
バラモスが中ボスっぽいのは周囲に手下が誰もいないからだと思う。
あと、あの落ち着き無さそうなポーズ。
どんなに感情移入して悩んでも、プレイヤーには「敵にもいいところがある。だから自分は戦いをやめる」などの選択肢が(ゲーム自体をやめる以外には)ほとんどないという点。
あくまでその世界(異世界)における社会観・倫理観に基づいた問題点・争点についての対立であるため、現実世界の自分の実感として倫理的な葛藤を覚えることが難しい(主人公が手を汚してもプレイヤーの罪という感覚になりにくい)という点。
個性的な主人公の特殊な出自・性格・人間関係に重きを置いたストーリーだと、主人公を「応援」したくなるような保護者的視点でプレイヤーが楽しむスタンスになってしまい、「悪と割り切れない悪」に直面しても、主人公の(多くの場合素晴らしく誠実な)人柄などの人間的資質によって救われてしまうことになる点。
これらの点で、プレイヤーが真摯に悩むのは構造的に難しいと思います。
感情移入のあまり、主人公と一緒に悲劇に遭った気分でちょっとしたトラウマになることはありますけど。
全力を持って叩き潰すという性質を持つ以上
「絶対悪」である必要があると思います。
そうでなければ勇者様ご一行が正義を建前に暴力を振るう
という矛盾が看過できないほどに大きくなるからです。
一時期は実は悲しい過去があったとか
家族や祖国を守るために仕方なくってのも好きだったんですが
それは運命や境遇を言い訳にして被害者面することで
加害者であることを正当化しようとしているのが
鼻についてしまって駄目になりました。
単純に好みの問題だと思います。
湿っぽい話だけど評価の高い作品も多いですし。
逆に「ゲームの中くらい、悪い敵をスカッとブッ殺そうぜ!」という意見も、うがって見ると結構尖ってる気もします。
ドラクエだと4のデスピサロと9のエルギオスが結構湿っぽいですね。僕は結構嫌いじゃないです、湿っぽい話。