ちょっと、とあるTwitterの発言を見て思ったこと。といっても、発言自体はトリガーであって、内容については私の意見はないのだけど。
言葉って伝わらないですね。津波警報と電車の運休をイコールで結んでいいのかという疑問を呈したのです。安全第一というのは当然ですが、運行責任、経済的な責任も片方にあるはずで、そういうルールが不完全と言いたかったのです。tomtsubo氏のPOSTより引用
津波の話は一旦忘れて頂きたい。実際のところ、坪田先生のこの前後の発言が批判されるべき発言なのか、妥当な発言なのか、そういう点について私の意見はない。興味もあんまりない。
「言葉って伝わらないですね」というのは、言わずもがなというか、端的にいって当然の前提だと思う。言葉を使って生活されている方がご存知ない訳はないので、ただの感慨なのだとは思うけど。
言葉は伝わらない。それはもう驚く程に伝わらない。これは、本だろうがブログだろうがテレビだろうが人狼会だろうが、およそ言葉を使ってコミュニケーションをとる際の、ありとあらゆる場所で頭に入れておくべき大前提だと私は考えている。
当たり前のことだが、普通の人はテレパシーが使えない。だから、誰かに自分の「伝えたいこと」を伝えるには、自分の思考を言葉に変えて相手に渡さなくてはいけない。
しかし、この「言葉を使ったコミュニケーション」というのは、実に悪路千里というかなんというか、殆どいじめの様な障害物競走なのである。
・「自分の思考」を言葉に変えること自体がまず難しい。
・自分の思考を言葉に出来たとして、それを相手に伝える手段が基本的にノイズだらけ。
・その言葉が、誤読・誤解なしで相手に伝わることすら保証されたものではない。ベストエフォートもいいところ。
・苦労して間違いなしで相手にその言葉を届けたとしても、それをどう受け取るかの決定権は相手にしかなく、基本的に人は自分の受け取りたいように言葉を受け取る。
聳え立つ幾つものハードル。最後のヤツが一番高い。「人は読みたい内容を読む」というヤツだ。
まず最初に、自分の思考を「適した」言葉に変えることが出来るかどうかというのが表現のハードル。それを間違いなく言葉に乗せて、例えば口で喋ることで、あるいはメールで、あるいはブログで、相手に伝えることが伝達のハードル。
そして、それがどんな言葉であれ、複数の解釈を許す言葉がたくさんの人に届いた時、大抵の場合「書いた人が伝えたかった意味」は確率の問題でしか届かない。「言葉を受け取る人は、自分の理解したい様に言葉を理解する」という大原則が存在するからだ。複数の解釈を許さないような「厳密な言葉」は、そもそもあまり理解してもらえない。これが理解のハードルだ。
自分の考えが相手に適切に伝わるというのは、普通に生活しているとそれ程珍しくないように思えるかも知れないけれど、多分本当は、物凄く幸福な偶然なのだ。それは、多分信頼とか、あるいは相手の理解しようとしてくれる姿勢とか、たまたま上手い言葉が思い浮かんだ幸運とか、時には錯覚とか、そういった色々な土台に支えられている。日常生活でさえ、多分、そうなんだと思う。
そんな土台がない場所での言葉は、「基本伝わらないもの」と覚悟して言葉を作るのが、真摯に言葉と向かい合う時の前提なのではあるまいか。
言葉は伝わらない。言葉が思った通りに伝わるのは、当たり前のことなのではなく、窓と窓の隙間を潜り抜けててんとう虫が飛び込んでくるような幸運だ。
だからこそ、そのほんの僅かな隙間の先にある幸福を求めて、我々は必死に「少しでも理解してもらえる言葉」を捜そうとしてあがくべきなんだと。伝わらないことを承知で千、万の言葉を積み上げるべきなんだと。
私はそんな風に思う。
自分は当事者では無いのに、デスク1個挟んだ隣の現場にハラハラドキドキ・・・。自分の仕事が手につかなくなるのがわかっているのに、どうしても関心が向かってしまい・・・。
あぁ、やっと終わりました。
落ち着かせてもらって、ありがとうございました。
比較的簡単な言葉というのは…お互いが持っている、比較的ノイズの少ない、共通の言葉です。
例えば、幼稚園の先生が幼児に対して使用するような言葉を使えば通じやすくなると思います。
思います、という表現を使っているのはそれでも伝わらないからです。わからないですねw