「大きなかぶ」というお話をご存知だろうか。
「大きなかぶ」は、ロシア民話を元に描かれた絵本である。主人公であるところの「おじいさん」は、畑にかぶの種をまく。その株はめったやたらに大きく育ち、喜んだおじいさんはかぶを抜こうとするのだがなかなか抜けない。
おじいさんはおばあさんに救援を頼むのだがそれでも抜けない。おばあさんは孫の少女に、少女は犬に、犬は猫に、猫はネズミに、それぞれ救援を頼んで皆で引っ張ることで、ようやく株は抜ける。「うんとこしょ、どっこいしょ、それでも株は抜けません」の繰り返しが印象的な童話である。
さて、実はこの「おおきなかぶ」というお話は驚く程示唆的であって、われわれはこの「株の引き抜き」をシステム開発案件に見立てた時、二つの教訓を得ることが出来る。
1.往々にして、「人手が足りないから」ということで救援を頼むと、現行人員よりもパワー不足の人員がアサインされる。あるいは、協業開発会社は往々にして自分たちよりも小粒の組織にしか案件を発注出来ない。
2.一度方針が決まってしまうと、その方針を見直すことは非常に難しい。
その1について。この物語の根本には、非常に単純な疑問が伏在している。つまり、「何故、自分よりも力が強いヤツを呼んできて手伝わせないのか」という問題である。
かぶは大きいとはいえ、最終的にはネズミや猫が手伝いに加わる程度で抜けるものであったのであり、最初におじいさんが馬なり象なり熊なりティラノサウルスなり、まあとにかく自分よりも力強い生き物を呼んでくれば一発で抜けたことは想像に難くない。本来、力仕事を行うなら、そこには力仕事に適した人材をアサインするべきなのである。
しかし、おじいさんに呼ばれたのは自分よりも力がないであろうおばあさんであり、おばあさんに呼ばれたのは自分よりも力がないであろう孫の少女である。以下、呼ばれる生き物は、犬(絵柄をみる限りけして大型犬ではない)、猫、果てはネズミにまでスケールダウンしていく。
ここから読み取れるメッセージは、おじいさんちの家庭の事情ということ以上に、「自分よりも力が強い人間を開発にアサインするのは案外難しい」ことであり、あるいは「自分たちよりも技術力が高い協業に開発案件をアサインすることは案外難しい」ことでもある。
言うまでもないことだが、単純な力仕事ならともかくとして、徒に人数を投入して、しかも新しく呼んできた人が案外わかっていない人である、という状況は非常にリスキーである。案件の引継ぎ、ナレッジの共有にだけ妙に時間をとられ、しかしアウトプットされる成果はなかなか小粒、であるという状況はなんら珍しいものではなく、しかも泥沼は泥沼を呼ぶことが常でもある。
こうして、本来なら技術力が高い人間にアサインすれば一発クリアされるであろう開発案件は、いたずらに人月を消費する泥沼案件と化す。最終的にかぶが抜けたからいいものの、これで茎の部分がぽっきり折れてでもいたらお話は大惨事である(そして、現実には茎が折れる案件というものは案外多い)。本来ならネズミが加わったところであまり状況は変わらないと思うのだが、まあこのネズミは案外虫食いか何かかも知れぬ。
ということで、第一の教訓は、可能な限り最初から象を呼べということであろうと思われる。
その2について。そもそも、おじいさんは何故「かぶを引っ張る」という行為に固執してしまったのか、という問題である。
絵柄を見ればわかるとおり、おそらくは茎を引っ張る以上に効率がよく、かつ安全な方法があるように思える。そう、「周囲を掘る」というソリューションである。
押してだめなら引いてみな、ではないが、最初に多少なりとも周囲を掘っておけば、なにも猫やネズミまで追加人員を投入しなくてもかぶ引き抜きプロジェクトは完遂出来た筈なのである。なのにおじいさんは、「茎を引っ張る」という手法に固執して人員を逐次投入している。プロジェクトマネジメント的にはいささか疑問の残るやり方だと判断せざるを得ない。おじいちゃんちょっとくらい鍬使ってください。
これは、一般的なシステム開発プロジェクトにおいても同様のことが言える。ある課題を解決するために、最初に設定した解決法よりもどう考えても効率がいい方法が見えたとしても、「後に引けない」という状況はなんら珍しいものではない。一度はじめてしまったが故に、効率が悪いことが見え見えでもその方法を続けざるを得ない、という状況は、システム開発案件における非常な罠である。おそらくネズミや猫あたりも、「あのー、掘らないんスか?」とかちょっと思いながら引っ張っていたに違いない。茎を捨てよ、鋤を持とう。
ということで、第二の教訓は、明らかに劣っている解決法を見直すことを恐れてはいけないということではないだろうか、と私は思う。
はるか100年以上前のロシア民話に、既にして含まれていた開発案件に対するメッセージ。これに感動しているのは一人私のみであろうか。ああ、アレクサンドル・アファナーシェフは讃うべきかな。
まとめてみよう。
・力仕事が見えた時点で、おじいさんは牛とか馬とか象とかティラノサウルスを調達すべきだったのではないだろうか。
・とはいえ、往々にしていろんな事情で、自分よりも力が強い人を連れてくるのが難しい時ってあるよね。
・引っ張ってだめなら周囲を掘ろうぜグランパ。
・ぜんぜん関係ないけど、うちの息子さんこれを3回くらい読み直させるんだけど違う本も読みませんか。気にいったのはいいんだけどさ。
ということで今回はこれくらいで。
2010年05月01日

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でもこのように考えるとそれはそれで現実社会における教訓として使えそうだから不思議。
それに対し、開発プロジェクトともなると見栄えを気にすることなく(絵本で言えば読み手を意識することなく)成功のみを追求できる。この差は大きいはずです。
力仕事に一番適した人がおじいさんなので(逆に言えば絵本中で一番頼りになるおじいさんが力仕事を受け持っているので)
適任者が応援を呼ぶなら適任者より成果を期待できる者はいないと考えられます。
例えば、しんざきさんが何らかの企画の立案を自分ひとりで構想を練っていたとします。考え方や方向性がおおまかに決まっていたとします。この時点で当然ながら立案者であるしんざきさんがその企画の一番の理解者になるわけですね。
が、途中で行き詰まった時に他の人に助けを求めた場合、自分の立案した企画に自分より理解している者はいないんです。
その事象に対する適任者は当事者である(とされる又はされてしまう)ケースが多いので絵本に関して言えば、力が一番あるおじいさんが農作業をしていた→力が及ばないので次に力のあるおばあさんを呼んだ
これは理にかなっていると思います。