あんまりまとまってない。メモ的に。
議論というものはそもそも何なのかというと、何らかのテーマに関して知見を出し合って、そのテーマに沿った新たな結論・アイディア・あるいは新たな問題提起を導出する為に行うものだと思う。少なくとも私はそう思う。
然るに、議論における「勝ち負け」とは一体なんなのだろう。お互いが何らかの違う目的をもって、要するに相手に言うこと聞かせてやろうとして諤々やり合うのならそれは説得合戦であって議論ではないし、どちらかの意見が明らかに正しくてもう片方は単に分かってないだけならそれは教育と呼ぶべきだし、自分の意見は絶対正しい、改良の余地はないと確信しているならそもそも議論をする意味はない。
議論とは「自分の意見」「相手の意見」それぞれの不備、足りない点を検証する為のものだ。もしも自分の考えの不備を指摘され、それを受け入れることが「負け」だとするなら、極論すれば、議論というものはある程度「負け」ないとやる意味をなさない。普通それは「負け」とは言わないと思う。
以下は印象論なんだけど。
「新しいものを見つける」という議論の目的の為には、積み上げが必要だ。Aという知見に対して、Bという知見を加えることによって新しいCという視点を見つける。前の言葉、前の論点に色んなものを少しずつ積み上げていく。それが議論だ。というか、「積み上げ」が存在しないと議論にはならない。
ところが、どうも「積み上げる議論」ではなく、その場その場で言葉を投げつけあって、その言葉の勢いのあるなしで「勝ち負け」を判断する、言ってみれば「言葉のぶつけっこ」を議論と考える人が、たまーにいる様な気がする。そういう人にとっては、何か新しい知見を導き出すことではなく、相手の弱点を探り出して、とにかく相手をへこませることが「勝ち」だったりする。
外野においても、「言葉のぶつけっこ」というルールで「勝ち負け」を判断して、やいのやいのと騒ぐ人が時折いるような気がする。
それは間違っているそれは間違っている、というだけの流れで殴りっこをしたとして、果たしてそれは議論と呼ぶのか。それが議論だったとして、それを完遂することによって得られるものはあるのか。
私は、それに「議論」というラベルを貼ることに、どうにも違和感を感じる。
2010年05月04日

この記事へのトラックバック
>自分の意見は絶対正しい、改良の余地はないと確信しているならそもそも議論をする意味はない。
絶対の確信があったとしても、反対の意見は重くに受け止める必要があります。反対の意見とは、企画実行に起きるであろうトラブルやクレームなどへの対応、予算の中途再編の有無、継続・停止の判断基準等等。
人が考える案が人によって破られることはあり得る。ならば破られる前に欠点を補強しなければなりません。
『失敗をする前に疑似失敗をする』ことで失敗を失敗としなくて済む強い体制が作れるのでは?