「新聞やテレビなどで報道されたか、されなかったか」というのを検証するコストは、確かに非常に高い。Webのコンテンツは基本的には永遠に残るが、新聞やテレビの過去分のアーカイブを検索するのは、Webに比べれば恐ろしい程手間がかかるし、場合によっては不可能だったりする。一つのテキストが正しいかどうかを検証するだけの為に、図書館にいってマイクロフィルムを漁るのは、Googleを数クリックする手間にくらべれば死ぬ程面倒くさい。
ただ、多分それが理由の一つで、「今まで報道されなかった」「マスコミが隠していた」という言葉が、Web上の反応を煽る為にお手軽に使われるようになりつつある現状、みたいなものがあるような気がする。
たとえば。
日本経済の不都合な真実
何故、日本経済の不都合な真実は報道されなかったのか?聊か偏った論理展開についてはとりあえずおいとこう。問題は、「それは本当に今まで報道されてこなかったのか」という点だ。
今回紹介した、『日本の産業を巡る現状と課題』の個々の資料は、過去にも別の形で登場しているものもある。しかし、このようなセンセーショナルな形で登場したのは初めてだと、私は記憶している。
・何故、今まで報道されなかったのか?
自民党政権の支持率を低下させる可能性のある現状を発表するわけにはいかなかったのではないか。
・何故、今回発表されたのか?
自民党政権により如何に日本経済が衰退し、これを変えて行くには民主党しかないという世間へのメッセージではないか。
私は、ここで「今まで報道されてこなかった」という言葉に対して、明確に「ここに載ってるじゃねえか」と指摘する材料を持っていない。材料なしで反論することは、自分を相手と同じレベルに貶めることだし、そもそも私自身別にメディア寄りの人間ではない。ただ、それを承知の上で、敢えて一度だけ指摘しておこう。いや、今まで散々新聞でもテレビでも散々センセーショナルな形で言われてたことじゃねえか、と。
「情報を隠してきた不公正なメディア」という論調に反論するのは難しい。何故ならソースの明示が難しいから。勿論、そのソースの明示の難しさには、既存メディアの責任もないわけではない。
しかし、どうも私は、「情報を隠してきた不公正なメディア」という構図が、ちょっと偏った使われ方をしているような印象を受けている。情報隠し云々だけではなく、「不公正な既存メディア」「公正なWebのメディア」という構図は、Webで受け入れられやすいが故に、どうも乱発され過ぎなのではないか。そんな風に思う。言ってみれば、真実に気づいた人作成メソッド、のようなものがどこかにあるような気がするのだ。
あまり統計が出せるような話ではないが、「Webには真実がある、マスコミは嘘だらけ」というかなり偏った価値観を持っている人が、一部には存在しているように思う。そうした方向性を補強している一端に、こうした反証のコストを利用した「既存のメディアでは報道されなかったが」という論調が伏在しているのではないか、と私は考えている。情報を隠す不公正なマスコミ、情報を白日のもとに晒す新世代のWeb、という構図は、Webに軸足を置いている人間にはとても受け入れやすい構図だ。
誤解を招くといけないので念のため書いておくが、私は「メディアが間違っている/不公正だ、というのは誤解だ」と言っているわけではない。既存メディアにも問題がある点は山ほどあるだろうし、偏った報道が行われることも勿論あるだろうし、報道するべきことが報道されなかったことだって勿論あるだろう。しかし、それはWebの情報は既存メディアよりも信頼出来る、ということを即意味するものではない。Webの情報にも偏見や誤謬が混じることは数限りなくあるし、話者のオピニオンによって情報が偏ることだって山のように、というかおそらく既存メディア以上にあるだろう。
それがどんなメディアだろうと、情報に接する時は常にその情報の妥当性を読み解く努力をしなくてはならない。しかし、「不公正な既存メディア - 公正なWeb」という構図は、その努力に対する障害になる。「Webの信頼性」に下駄を履かせてはいけない。Webの情報が信頼出来るとすれば、それは「既存メディア以上にたくさんの人が、その情報が妥当かどうかきちんと考え、追いかけているから」でないといけない。
Webには真実がある、マスコミは嘘だらけだ、と考えるのは個人の自由だ。ただ、報道姿勢はともかく、情報に貴賎はない。「Webだから」「新聞だから」という理由で信頼するかしないかを決めるのは、極めて危険だなことなのだ。
自分で考えないといけない。それがWebだろうが、テレビだろうが、新聞だろうが。
関連:新聞社の赤字が勘違いを呼んでいる様な気がする
レッテル貼らずにちゃんと考えて判断するべきという点では変わりませんよね
んで、「Webの真実」を主張するには「真実の的」というのが何かというのを見極めなければならないし、「Webの偏りのなさ」を是としたいならば単純に「いろんな偏り」があることを認めなければならない、ということだと思います。
某サイトの情報は信じるのにTVの情報は信じない生徒がいるのだが、その人はその某サイトの情報の信ぴょう性はどれほどなのかちゃんと理解しているのか?
って話があったって事を思い出しました