ちょっととりとめもない話をする。
息子さんは3歳になった。夜20時を過ぎると寝る時間である。
あわただしく息子さんの歯を磨いて、私が早く帰れた時は3人で、早く帰れなかった時は奥様と息子さんであわただしくお風呂に入って。嫌がる息子さんをとっ捕まえてドライヤーをかけ服を着せ、私と息子さんは大体奥様よりも先に寝支度が出来て二人で布団に転がる。
時にはごろんごろんとお相撲ごっこをし、時には絵本や紙芝居を読んで、きゃっきゃとした息子さんの声を聞いている内に奥様が部屋に入ってきて、お母さんの顔で息子さんの横に寝転がる。電気を消す。真っ暗な部屋の中でも、息子さんはしばらくごろんごろんと転がる。息子さんの寝相はひどい。翌朝、布団の上にそのまま寝続けているケースは極めて稀である。
最近、暗くなった部屋の中で、息子さんが「おはなししてー?」と言うようになった。
息子さんにお話をせがまれて、私はふーむ、と考える。時には奥様に投げる。時にはその日一日の自分の行動について話す。時には即興で何か話を作る。息子さんは、大体「でんしゃのお話」をして欲しい、と言う。「そうぶせんのおはなし」や「ぎんざせんのおはなし」を要望されることもある。大抵何を話しても喜ぶ。
時折、むかしばなし、を聞かせるようになった。「むかしむかし、あるところに」で始まる諸々のお話。桃太郎は話した。浦島太郎も話した。白雪姫も話した。赤頭巾ちゃんも、まあ余り細部に踏み込まない程度に話した。昨日はかぐや姫も話した。
昔話をしていると、「分かりやすい話」がどうやって形作られるのかがよく分かる。「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました」この一言だけで、時間と、場所と、キャラクターの設定が終わる。息子さんはほんのこの一言だけで、暗い中目を輝かせて「つづきは?つづきは?」と食いついてくる。凄いなあ、と思う。話の作りっていうのはこうあるべきだなあ、とも思う。
それと同時に、お話を聞かせたり絵本を読んだりというのは、「情報の伝達」なのではなく、飽くまで「意思疎通」なのだなあ、とも思う。息子さんはさかんにあいのてを入れる。息子さんのあいの手に反応して話が進むこともあれば、とんでもない方向にブッ飛ぶこともあり(この前は桃太郎がいつの間にかアメリカに渡って大統領になっていた)、話が終わって「おしまいー?」と残念そうに言われたりすることもある。話の途中で息子さんがすやすや寝ていることも、ある。当然ある。
「おはなし」は、話す側と聞く側によって変容していく。当たり前の話だ。
ここで、私は二つのことを考える。
一つは、数限りなく夜子供が寝ている横での「お話」に使われていて、それでも核となる部分が変わらない、「むかしばなし」というものは凄い力を持っているんだなあ、ということ。
もう一つは、抽象的なのだが、何かを伝えたり残したりしていくってこういうことなのかなあ、ということ。夜、暗い中寝転がっている息子さんに語りかける言葉が、だんだんだんだん降り積もって、息子さんという人間の中に何かが形成されていくのかなあ、ということ。
かつて私がそうだったように。かつて私が聞いた話を、今、つぎはぎのように思い出しながら息子さんにしているように。
いつか息子さんも、誰か別の人に桃太郎や浦島太郎の話をする時が来るのかなあと思いながら、私は息子さんの「おはなししてー?」という声を聞く。そんなとりとめもない話。
2010年07月23日

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私は「桃太郎は都の人から見たら正義の味方だけど、鬼にしてみれば迷惑極まりない奴だよね」的な話をしたりして、子供に社会の複雑さをほのめかしたりしていましたよ。
……んー、既にやってそうだな、なんせしんざきさんだしっ。
ところで20時就寝で、わりとすんなり落ちる派?
今じゃシリーズ化してますね、明日はvol19だっけ?