早い話、「実名/匿名」という基準と、「責任/無責任」という軸を結びつけて語る時代はとっくの昔に終わった、という話に落ち着くんじゃないかと思う。
先日Twitter周辺で、「匿名批判」を声高に論じている人を久々に見かけた。その際、この人は何をいっておるんじゃろうな、みたいな違和感を感じたので、ちょっと自分の中でその違和感をまとめてみたくなった。今更なあ、と自分でも思わないでもないが、整理の為ということでご容赦願いたい。
以下はおはなしの要点。
・匿名批判の中核は、実名を出すかどうか、ということよりも「発言にリスクをとっているかとっていないか」「発言に責任をとっているかいないか」という部分にあると思う。
・しかし、実名であること、匿名であることがどの程度のリスクになるか、というものは人それぞれであって、責任ある発言・無責任な発言を保証するものではない。ありふれた名前の人、珍しい名前の人、実生活と容易に結び付けられる発言をしている人、そうでない人、それぞれ実名匿名のリスクは異なる。
・つまり、「実名か匿名か」という問題は議論の本質ではない。実名であっても無責任な発言をする人はいるし、匿名であっても失うものを持ち、責任ある発言をしている人はいる。
・匿名性と「無責任な発言」というものが無条件に結び付けられる土台、というものがどこかにあると思う。
・で、その土台を形成した主要な要因は、多分古き2ちゃんねるに代表される、匿名掲示板に対するイメージだと思う。ネットといえば2ちゃん、2ちゃんといえば匿名での無責任な書き込み、というような連想が残留している人は多分いて、そういう人にとっては未だに「匿名であること」が攻撃対象になる。(これは飽くまで構図であって、実際に2ちゃんを意識しているかどうかとはあんまり関係がない)
・ただ、「2ちゃん的なあり方」というのはもうかなり前からWebの主要なシーンではなくなってきていて、今は匿名IDでも様々なもの、様々な繋がりを「所有する」時代になった。「実名/匿名」という軸と「責任/無責任」という軸は、ソーシャルメディアの発展と共にとうの昔に分離していると思える。
・端的にいうと、「2ちゃん的なもの」ニアリイコール「匿名性と無責任な発言の結合」というものがネットの象徴である時代は、とうの昔に終わった。匿名性がWebの最大の特徴であった時代は、既に終わった。
・名前というのはネット上の人格の数ある属性の一つでしかなく、実名だろうと匿名だろうとたいして関係はない。リスクがあるという意味では、一般人の実名が露見するよりも、使用している複数のWebサービスのIDや位置情報、住所等が横断的にバれた方がよほどリスクがでかい。
・上記の諸々とは別に、「実名で過ごすメリットデメリット、匿名で過ごすメリットデメリット」というのは勿論あると思う。ただそれは、批判するしないの話ではなく、単にどちらを選択するか、というだけの話だ。
あれ、言いたいことを大体言ってしまったぞ。
一言で私の感じた違和感をまとめてしまうと、「一体いつまで「2ちゃん的なもの」を匿名の象徴みたいに考えてるんだ」ということ、だと思う。批判するなら無責任な発言の方であって、匿名性ではないだろう、と。
私は個人的に、実名であることのメリットをさして感じる立場にはないということと、1998年くらいから使っている「しんざき」というHNに愛着があることから、今でもしんざきという名前で過ごしている。私はしんざきという名前をそれなりには大事に思っているし、そこまで無責任な発言をしてこの名前を汚してはいないつもりである。客観的に見ればどうなのか分からないが。
来年以降も、しんざき名義でのらくらとテキストを発信していくつもりなので、お見捨てなくお付き合い頂ければ幸いという他ない。
2010年12月30日

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