先に書きたいことだけ書く。
・万事の表現と同じく、駄洒落には「発想」と「発信」の二つの段階がある。
・「駄洒落を発想すること」は言葉遊びであり、言葉を扱うことの修練であり、歴史的に見れば教養であり、言葉に対する感受性の発露である。よって駄洒落を思いついてしまうことは恥ずかしいことではない。それはあなたの脳が言葉に対して強い感受性を持っていることを証明している。
・「駄洒落を発信すること」の有効性は時代によって変わる。そして現在、駄洒落発信は冬の時代を迎えており、理由は不明ながら駄洒落自体が発信を軽んぜられる・あるいは発信が評価の低下に繋がるという状況を迎えている。ひどい話である。
・というか、元来は「教養」でこそあれ、別に笑いの種ではなかった筈の洒落というものが、何故現在は「笑いを狙って外したもの」扱いなのかよくわかんない。
・世の駄洒落ソルジャーは、駄洒落の地位向上・復権に努めたり、掛詞や地口の認知度向上を目指したり、あるいは「実はこれは押韻だったんだよ!」と強弁したりすればいいのではないかと思う。
ということで、言いたいことは全部言ってしまった。以下は補足のようなもの。
今更いちいち言うまでもないが、駄洒落というのは「ふとんがふっとんだ」とか「ねこがねころんだ」とかそーゆーアレである。世の中には数限りない駄洒落があり、そのバリエーションはその言語の豊かさに保証されている。
駄洒落の定義からすれば、「同じあるいは非常に似通った音を持つ言葉をかけて遊ぶ一種の言葉遊び」というのは、これは和歌における掛詞、誌における押韻と同質なものなのであり、つまりかつては教養の一種であった筈なのだが、なにしろ駄洒落というものは地位が低い。落語においても、地口オチというのは大抵一ランク格が低いものとみなされるらしい。
訓練された駄洒落使いは、時としてその場を凍りつかせる。それは確かだ。その辺のオヤジに、得意満面で駄洒落を言われた時の雰囲気は何ものにも換えがたい。
そもそも、かつては教養だった駄洒落が「寒い」などと称されるようになったのは一体何故なのか。なにゆえか。
私にもいまいち分からないが、本来は会話の活滑油として扱われる筈のユーモアであるが、駄洒落というものは基本的に自己完結しているが為「突っ込みにくい」あるいは「突っ込めない」というのが最大の問題なのではあるまいか。
つまり、「ボケ + 突っ込み」という、ボケを引き立てさせるが為に突っ込みを用意するというユーモア形態が広く普及したが為に、そこに入りえない駄洒落・地口が地位を落としたのではないか、という仮説である。正しいかどうかは知ったことではない。
そこから考えると、「自己完結というものも強ち悪いものではない」という意識を広げることが出来れば、あるいは駄洒落の地位を回復することも出来るのではないかと思わないでもないのだが、まあ私は別に駄洒落ソルジャーじゃないのでどうでもいいや。駄洒落ソルジャーの方は頑張ってください。
なんにせよ、駄洒落というものは元は教養であったのだから、決して馬鹿にしたものではない筈だ、ということのみは、重ねて主張させて頂きたく。
取り敢えず今日はこの辺で。
2011年06月05日
この記事へのトラックバック
よくラノベに出るようなシリアスなセリフも、今や飽きられて中二病と揶揄されているのと同じでは・・・