メモ的に。特に結論が出るような話でもない。
先日Twitterで、「家康が主人公のゲームがないのは何故なのか」みたいな話になっていた。多分発端はこの辺の記事なのではないかと思う。
確か関ヶ原合戦がテーマのゲームは出ていたような気がするが、確かに信長・秀吉が主人公のゲームに比べれば、家康が主人公のゲームの数は少ないかも知れない。
まあ、「歴史のifを楽しむ」というのが歴史ゲームの一つの楽しみ、ということから考えると、実際に野望を成就してしまった家康さんはちょっと素材として美味しくない、という側面はあるのかも知れない。「信長の野望」というタイトルに対し、「家康の野望」というタイトルは確かにキャッチーではない。この辺、江戸幕府の礎を築いた家康の事績が、むしろマイナスの方向に作用してしまっているということなのかも知れない。
それはそうと。ifを楽しめる素材、という観点から言えば、歴史ものゲーム、特に歴史ものウォーシミュレーションの舞台には「向き・不向き」というものがあるのではないか、と思った。
思うに、「ゲームとして面白くしやすい時代」の条件は以下のようなものではないか。
・何かの目標(天下をとる、戦争に勝つなど)を達成した・あるいは達成し得た勢力が複数存在する
・その時代の複数の人物の事績、エピソードなどが豊富に参照出来る/人口に膾炙している
・期間・地域などがある程度限定されている
まず、「勢力が複数存在する」というのは非常に重要だ。上でも書いたが、仮想歴史ものでもっとも大事なものは「ifを想定する楽しさ」である。もしこの勢力が天下をとっていたら、もしこの勢力がこの戦いに勝っていたら、ということをあれこれ妄想するにあたって、強大な勢力がひとつに固定されてはいくら何でも話にならない。
続いて、その時代の人物がある程度知られている、エピソードが伝わっている、というのも重要な要素である。ゲームに感情移入するにあたって、「知っている人物」「お気に入りの人物」がいるといないでは感情移入度合いが全く変わってくるものだ。「武将A」とか「将軍B」といった仮想キャラクターに感情移入するには、不可能とは言わないが、多少複雑なプロセスが必要とされる。
最後に、「範囲がある程度限定されていること」。これはどちらかというとゲームデザイン上の問題で、あまりに地域や年代が広範にわたりすぎていると、ゲームとしてひとつにまとめるのに若干手間がかかる。勿論無理ではないだろうし、実際広範な範囲を対象として成功しているゲームも数多あるだろうが、デザインに一工夫必要というのは確実だろう。一例だが、光栄の「蒼き狼と白き牝鹿」なんかでは、モンゴル編と世界編を二部構成にしていたこと、年代のずれにある程度目をつぶって群雄割拠の状態を作ったことなんかが工夫の内だったと思う。オルドの話しかしない子は廊下にたってなさい。
こうして考えていくと、日本の戦国時代、および中国の後漢末から三国時代の「素材としての優秀さ」が際立つ。誰が天下をとっても不思議ではなかった時代だし、伝わっているエピソードも質量ともに豊富だ。三国志もの、戦国もののゲームは世に数多いが、その理由はここら辺にあるのではないか。
一方、シヴィライゼーションのような巨視的なゲームとは別に、例えばランペルールやヨーロッパユニバーサリスのような、西欧を舞台にした歴史ゲームも当然ある。ヨーロッパ史も相当に群雄割拠の時代なので、ゲームの素材としてはすばらしいと思うのだが、当たり前といえば当たり前かも知れないが、日本ではゲームの数的に「戦国もの・三国志もの」に一歩譲っている印象はある。トータルウォーとか色々あることはあるんですけどね。
単に「ヨーロッパ」といっただけだと範囲が広すぎることと、範囲を限定すると今度はゲームに登場するべき「知られた人物」が不足してしまう、ということが、その辺の理由なのではあるまいか。実際のところ、「日本語で読める史料の量」という要素はゲーム作りにおいて馬鹿にならないんじゃないだろうか。最近はWebの普及でその辺のハードルも下がってるのかも知れないけど。
まあぐだぐだと書いたが、いいたいことを端的にまとめると、
・光栄はそろそろオフライン版大航海時代の新作を出していいのではないか、というか出してください
ということのみであり、他にいいたいことは特にないということをお断りしておく。
今日はこの辺で。
2011年06月20日

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Excerpt: ・光栄はそろそろオフライン版大航海時代の新作を出していいのではないか、というか出してください 歴史ものSLGについてのあれこれ。: 不倒城 禿げ上がるほどに同意。ヘドバンしながら同意。 まあ家康に関..
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Tracked: 2011-06-20 17:38