2011年11月01日

痛みについてなんとなく考えたこと

ちょっととりとめもない話をする。


最近痛みを感じる機会が少ない。

この場合の「痛み」というのは、暗喩でも直喩でもなく、文字通り「物理的に痛い」という話である。


かつての、というか子供の頃の私は、大体生傷、クラッシュ、高所からの落下などと二人連れで生きていた。

幼稚園に入る前くらいの頃、私は水の無い側溝の中、かたつむりを掴もうとしてそのまま頭から側溝に落下し、頭から血をダラダラ流しながら自宅に帰って、親を愕然とさせた経験がある、らしい。らしいというのは、その頃の私自身の記憶が定かでないからである。

記憶は定かではないが、髪を掻き分けて頭を触ると、その時縫ったらしい跡が残っている。

私はどうも、怪我をしたこと自体よりも針で縫われることの方を散々嫌がったらしく、縫われる時だけぎゃんぎゃん泣いた、という話を親から伝え聞いている。どうも針が怖かったらしい。血がだらだら出ている程度の傷なら普通針など気にしている場合ではないと思うが、痛覚が鈍いのは子供の頃からの体質のようだ。ちなみに今でも鈍い。

他、公衆便所の屋根から落っこちて大怪我をしたり、登っていた木から落っこちて大怪我をしたり、民家の塀から落っこちて大怪我をしたりと、私が今日まで生きながらえていることは奇跡の類として数えられるのではないか、と思う程度に大怪我をしている(らしい)私ではあるが、成人してからは格段に「怪我」というものの機会が減った。というか、「痛みを感じる」機会が減った。

「子供の頃の方が大人になってからよりも痛い思いをする機会が多い」というのは、職業などにもよるだろうが、結構多くの人に当てはまる、普遍的な法則のではないだろうか。

子供は、なにしろまだ子供なので、自分の体の扱い方に習熟し切っていないし、好奇心も旺盛であり、かつ自制心もそれ程育っていない。生傷を負う条件満たしまくりである。

大人になると、転んで膝をすり剥いたりする機会もそれ程ないし、子供の頃程は民家の塀に登ったりしないし、側溝に頭から特攻したりする機会もそれ程ない。


うちで息子さんの挙動を見ていても、階段から飛び降りてすっ転んだり、部屋を駆け回っていて壁やテーブルに激突したり、色々とクラッシュの機会が多く、クラッシュする度にびゃあびゃあ泣いている。幸い大した怪我こそしていないが、大変そうである。こうした機会を積み重ねることで「痛みに対する耐性」みたいなものも培っていくのかなあ、となんとなく思ったが、実際どうなのかは知らない。


ともあれ、子供に対して、「危ないからやめなー」という言葉を発しそうになる場面は多い。

「それ程深刻でない程度に痛い思いをする」というのも、成長の過程では必要なことなのかも知れないので、本当に危なそうな遊びはストップさせるにしても、膝を擦り剥く程度の傷は親としても許容していきたいところである。


以上、とりとめもない話。
posted by しんざき at 18:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
痛みに対する許容の問題ではないかと思います。
壁にぶつかるときに寸前で痛みを想定し、許容範囲内ならグッと堪え、許容範囲外なら泣いたり呻いたりするのでしょう。
例えば積み木で、四角い積み木の角は一応尖っています。これに触れたとき、力の加減がどこからどこまでが痛くなくて、どこから先が痛みを感じるかを遊びながら学び、自分で許容できる範囲を無意識の内に構成していくのです。
仮に痛みに対しての許容を全く持ち得ていない人が苦痛に遭ったとしたら、私たちが認識する痛みのそれより甚大で激しい痛みが走ることでしょう。
また、想像し得ない・予測できない痛みには過敏になりやすいのが人間です。注射では今はなんともなくともあんなに小さい注射針に脳天まで突き抜けるような鋭い痛みを受けると子供が想像できたでしょうか?
二度三度と撃たれた人が銃撃を受けて声を堪えられるのも銃撃の痛みに対して許容をある程度持っているからでしょう。初めて撃たれた人は悶絶するはずです。
Posted by クロマル at 2011年11月13日 17:34
昔の、縫う程の怪我だと、怪我した本人はビックリして泣かないけれど、ぬう時は麻酔が効いていないとチクチク痛い気がします。
ぬい糸を抜く時も、多分痛いですよー。
Posted by むんなー。 at 2012年03月07日 12:35
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック