・思いは、言葉にしなければ決して伝わらないということ。だからこそ言葉は貴重だ、ということ。
・言葉は、ハードルでもあるということ。決して、意図通り、たやすく伝わるものではないということ。
・だからこそ、思いを伝える為には、持てる限りの言葉を、費やせる限り費やさなくてはならない、ということ。
今日で不倒城が七歳になった。
別に毎日更新を掲げている訳でもなんでもなく、書きたい時に書きたいことだけ書いているブログなので、それほど大げさな話でもないが、七年というのは言葉にしてみると流石に長い。二文字だけど長い。小学生が中学生にクラスチェンジしてしまう程度の期間である。
冒頭の三行は、先日NoBorderでも書いた内容なのだが、ブログを七年やって考えたことではあるので、この機会にちょっと書き直してみる。
・思いは、言葉にしなければ決して伝わらないということ。だからこそ言葉は貴重だ、ということ。
一つ目は、「書かないと伝わらない」「言葉にしないと伝わらない」という、ごく当然の事実である。
私が何を考えているかは、黙っていれば他の誰かには伝わらない。当然である。
あなたが何を考えているかは、黙っていれば私には伝わらない。これも当然である。
以心伝心などというものはコミュニケーションの形としては例外中の例外であり、われわれがエスパーでない限りは、「言葉なしでの意思伝達」など出来っこないのだ。
「愛してる」とか、「好きだ」という言葉を、口にするとなんとなく軽くなるような気がするから言葉にしにくい、という話を、かつて聞いたことがある。
少なくとも私に関する限りは、それは違う、と思う。まず、伝えなくてはいけないのだ。言葉にせずとも伝わって欲しい、なんていうのは、人間関係のみにコミュニケーションの成立を押し付ける、虫の良い甘えだ、と私は思う。
言葉が軽くなるなんて心配をするのは、本当に言い尽くせないくらい言い尽くして、その後でいい。少なくとも、私はそう思っている。
・言葉は、ハードルでもあるということ。
これも、以前書いたことがある気がするが。
言葉は伝わらないものである。少なくとも、自分の言葉が、自分が意図した通り100%相手に伝わるというのは、レアケース中のレアケースであると考えていい。
文章を書くというのは、「自分の考え」を「自分の言葉」に変形させる、という行為である。
思考というのはもやもやしたものだから、自分の考えを過不足なく言葉に直すのはとても難しい。どんな文章の達人でも、それは変わらない。出来上がった文章には、大抵の場合、かなりのノイズが混じっている筈だ。
そしてそれ以上に、「自分の言葉をどう読むか」は読む側の自由である訳で、自分の意図通りに読み手が文章を読んでくれる保証などどこにもない。
過ごしてきた年月、経験が違えば、当然思考回路も違う。自分の脳とは違うハードウェアに同じ文章を読み込ませるのだから、むしろ「書き手が思った通りには理解されないのが普通」と考えるべきだろう。これは文章を書く上で、どんな書き手でも理解しておくべき大前提だと、私は思っている。
つまり、「思考を言葉に直す過程」「言葉を読み手が吸収する過程」の二か所に、とても大きなハードルが一個ずつある訳だ。これは大変な高難度ゲーである。
・だからこそ、思いを伝える為には、持てる限りの言葉を、費やせる限り費やさなくてはならない、ということ。
高難度ゲーは、コインをつぎこまなくてはクリアすることは出来ない。
言葉にしなくては思いが伝わらず、しかもその言葉がなかなか伝わらないのであれば、言葉に言葉を重ねるしかない。
ボールをどう受け取るかは、受け取る人の自由。それでいい。それでいいと、最近思えるようになった。
となれば、受け取って欲しいボールを山ほど投げ、下手な鉄砲を撃ち続けることが私のするべきことだ、というのが、7年書いてきての私の結論である。
7年書いてくれば、最初の頃には「何書いてんだコレ」と思うような内容の記事もたくさんある。ただ、私に関して言えば、そういう記事も全部含めて私の誇りである。それらは、私が撃ってきた「下手な鉄砲」の、紛れもない断片だからだ。
不倒城にはこれからも、下手な鉄砲の弾が積みあがっていくことかと思う。そういった弾の一つでも二つでも、読んで下さる方の元に届けば幸いなことこの上ない。
2011年11月11日
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ずっと面白く読ませて頂いてます
これからも楽しみにしています