2005年03月11日

思想議論は何故炎上するか。

いやまあ、ブログ上での話に限ったことではないのだが。一歩進んで、何故思想争議は「炎上」に行き着くか、というお話。

コメント欄で教えていただいたのだが、こちらのブログでの論争が終結に向かっている様だ。まあなんというか、ざっと読んだところこのブログそのものに対する感想は色々あるが、ここでは取り敢えず割愛する。
先に断っておくが、私はこの議論そのものには参加していない。故に、野次馬の無責任な批評にならざるを得ない。後から来て口出すなと思われる向きもあろうが、見たい番組が終わってからテレビをつけたものの悲哀に免じてご勘弁頂けると幸いである。
ともかく、ブログのエントリーを起点に始まった議論が、どうにか平和裏に収束した光景を目の当たりにした。

で、思ったのだ。これで皆さん納得いってるのかな、と。

先日の「ブログでの祭りとか炎上とかについて。」にも関連したことだが、左だの右だの、イデオロギー的なレベルでの議論で建設的に終わったものを見たことがない。炎の中から生まれるものもあるであろうから全くの不毛とまでは言わないが、少なくともネット上に関する限り、殆どは結局のところ双方にとってうやむやに終わってしまうか、「炎上」にいきつくかの二択を辿っている様な気がする。

なんでかというと話は単純で、それぞれの「信じているもの」が余りに強固だからだ。言い方を変えると、「信じている」ことの強固さに比して、ブログや他人の言葉の影響力が余りに矮小だから、ということでもある。

これ多分、左も右もあんまり関係ない。

人間の思想とか信念とかいう代物は、根本に近づけば近づく程、枠組みが大きければ大きい程、強固になる。例えば政治の話。国際問題の話。環境問題の話。生き方の話。

一度このレベルでの思想の枠組みが出来てきてしまうと、かなり頭が柔軟な人でも、「他の意見を聞き入れて」自分の考えを変えるということが幾何級数的に難しくなっていく。この理由はよく分からん。心理学的な問題なのかも知れないし、単にでかい木程根こそぎ抜くのが大変だ、という程度の話なのかも知れない。前回も触れた、宗教から抜け出すのが大変、ということの要因でもある。

で、ある考え方を強固にした人が、前回触れた「啓蒙欲求」に駆られてどこかに大声で自分の考えを発表したとする。その考えを受け入れられない、他の「啓蒙欲求」の持ち主がそこに寄ってくる。取っ組み合いが始まる。お互い考え方は強固だ。一向に折れない。さて、どうなるか。

問題点は二つある。

・ブログやコメントで自分の思想を発表することが、極めて容易であること。そして、他者の目に触れる機会も多いこと。

ブログやコメントで見る他人の思想の訴えかける力が、極めて弱いこと。

一つ目に関しては、今更くだくだ言うことでもない。エントリーを書けば、どんな人でも簡単に思想家になれる。自分の考えを発表するのは極めて容易だし、極めて気持ちがいい。まあ、この段階で「思想家」になっている人のなかには、それ程強固な枠組みをまだ持っていない人もいるかも知れないから、まだ救いがあるが。
現実世界の「論争」と違う部分があるとしたらここだが、これはブログというツールの、まさに根本となる特長である。原因とする訳にはいかない。勿論コメントの嵐がつく様なエントリーを投げる側には、大抵の場合何かしらの問題はあるだろうが、それも当人にとってみれば「強固な枠組み」の内の話なのだ。

難しいのは、二つ目である。
ブログにせよ何にせよ、ネットにあふれている情報は結局のところ「言葉」であり「文字」である。ブログのエントリーも他人のコメントもトラックバックも、文字以上の力をもつことは出来ない。そして哀しいかな、文字だけの情報には徹頭徹尾限界というものがある。一度生えてしまった大樹をめきめきと倒す程の力をもった文章というものは、そうそう書けるものではない。大樹の根っこに沿った発言はすんなりと受け入れられる様なのだが。

私はネットでの論争についてそこまで熱意をもって追っかけている訳ではないので正直データ不足ではあるのだが、いわゆる「コメントスクラム」とやらを受けた上で「私が間違ってました」と翻意した人は、果たしてどれだけいるのだろうか。想像で書いてしまうと、おそらく一割もないのではないか。

先程描いた通り、啓蒙欲求をもった人同士の議論というものは、時折取っ組み合い、殴り合いの様相を見せる。お互いがお互いの逆鱗に触れているのだ、そう簡単に矛先をひっこめられる訳がない。結果的に、コメント欄はどんどん加熱していくが、それと反比例する様に、ブログの所持者に訴えかける力は弱くなっていく様に思えるのだ。

元々コメント欄の文章だけで強固な考え方を突き崩すこと自体至難の業なのだ。かてて加えて、殺到するコメントを「攻撃」と受け止めたブログ所持者は、大抵の場合「防御」あるいは「反撃」に出る様に見える。結果的に、例えコメント欄の中に大樹を倒せる説得力が紛れ込んでいたとしても、それは「攻撃の一部」としかみなされなくなっていく。どうしようもない。

で、コメントする側から見ても、相手が翻意しないとなればそれはやっぱり納得がいかない。自分の誤りも認めない、エントリーの内容も変わらない、自分の質問にも(自分の思う様には)真正面から答えない、となれば攻撃の手を強めるのは当然だ。これもある意味どうしようもない。ごくごく自然な感情が動くとこうならざるを得ない。しかし、何をやろうと相手は「負け」を認めない。

で、行き着くゴールが炎上、あるいはどちらかが矛先を収めてのうやむや終結、と。この様な結果になっている様に思えてならない。

この場合、何が不毛ってどちらの側にも「納得」がないことが不毛なのである

せめてどちらか片方でも納得感があればまだ良いのだが、今までの結果をつらつらと眺めている限り、見受けられるのは相手を「炎上」や「焼失」に追い込んだ時の爽快感のみである。まあ、これはこれでアリっちゃアリなのかも知れないが、このままだと「炎上」に持ち込めばコメントした側の勝ち、うやむやになればコメントした側の負け、という流れになりかねないのではないかという危惧はある。


さてさて、ここまでで分析めいたことをしてはみたのだが、今の私には「で、どうすればいいの?」という結論及びビジョンが欠けている。取り敢えず前回のエントリーで、「自分の余裕の無さを把握していれば文章が感情的になることは避けられる」とは思ったが、だからといって議論の片方が冷静でなければ、不毛な議論が不毛に終わることに違いはない。さらに、議論が全くの不毛であるとは限らず、多少はお互いの考え方に影響が出ることもあるかも知れない。

さらにさらに、これだけくだくだと言っておいてそりゃないだろうとは思うが、実は私自身結構喧嘩は好きなのである。かつての職業柄、あまり強く自分の思想を押し出さない様、なるべく冷静かつ柔軟になる様気をつけてはいるが、たまーに喧嘩に手を出す口を出す足を出す火炎瓶を突っ込む。恥ずかしいことながら、私にとっていわゆる「左」の様に思えた人のブログに喧嘩を売ったこともある。こーゆー社説を読めば腹も立つ。反省もあり自戒もある。つまり、「不毛な議論」に無駄だからやめとけ、と言い切ることも個人的に出来ない。

まああれだ、取り敢えず上記の話は全て「ブログの所持者」と「それと取っ組み合いをする人達」の話なので、さらにその二者を傍観する人は、なるべく冷静に観戦した方が色々と面白いですよ、ということと。当事者同士の方も、自分の中の根本的な枠組みがどうなってるかを分析してみると、よりテクニカルな喧嘩が出来ると思いますよ、と。この程度の、ごくごくうやむやな結論を取り敢えずつけて、今日は筆を置いておきたいと思う。

posted by しんざき at 10:26 | Comment(2) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
自分の感情を言葉にするって難しいからねぇ。
それに、世の中自分と違う考えがある、ってことは、頭で解ってても肌で感じることはなかなかないし。

みんな喧嘩慣れしてないのも一因かと。
Posted by bari at 2005年03月11日 14:37
>世の中自分と違う考えがある、ってことは、頭で解ってても
ですね。というか、どんな考え方の人でもその考え方に至るまでに色んな下積みや蓄積があるから、他の考え方の強固さに想像が及ばないってことが大きいのかも知れないとも。

>みんな喧嘩慣れしてないのも一因かと。
たまーに凄い勢いの猛者もまじってたりしますけどね。
Posted by しんざき at 2005年03月11日 15:49
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