以下、個人的な思い出を書き残しておく。
株式会社ハドソン 臨時報告書
私が初めてプレイしたファミコンのゲームは、確かナッツ&ミルクだった。本編以上に「ステージエディット」というおもちゃに魅せられた私は、色んなステージをこねくりまわして、ナッツがそれぞれのステージでどんな動きをするのか、ということをあれこれと試した。多分私は、このゲームで「アルゴリズム」に出会った。
「バンゲリングベイ」をプレイしたのはそのもう少し後のことだった。今振り返ってみれば、ブローダーバンドがこのゲームに何を込めていたのかがよく分かる。このゲームは、出現が早すぎた「戦闘ヘリ版フライトシミュレーター」だった。ファミコンにおけるヘリゲーの始祖、といってしまってもよい。
コロコロコミックとハドソンのタイアップが緊密になり始めたのも多分この前後のことで、漫画を読んでバンゲリングベイを手にとった小学生の多くは、不幸なことに「何がなんだかよくわからない」という感想をこのゲームに対して抱いてしまったことと思われる。私の周囲でもこの現象は頻発し、今でもこの呪いが解けていない人もいる。
1985年に入って、「チャンピオンシップロードランナー」が発売された頃、販促イベントに高橋利幸氏が姿を現し始めた。彼が「高橋名人」になったのは、更にその二か月後、「スターフォース」での出来事だった筈だ。
「連射が速い」という実に分かりやすいステータスを有していた高橋名人は、コロコロコミックという強烈なブースターを介して、当時ファミコンという遊び場に沸き立っていた子供たちの間で一気にスターダムにのし上がった。私自身、ゲームの攻略本やコロコロコミック上で、高橋名人の活躍に触れていた世代である。高橋名人という巨人は、この後ファミコン時代を通じて、家庭用ゲームのキーマンの一人であり続けたと思う。
「プーヤン」と「チャレンジャー」がそれぞれ9月と10月に発売されたのも1985年のことだ。この少しあと、12月19日に同時発売された「バイナリィランド」や「ボンバーマン」を見てもわかる通り、当時のゲーム開発ペースは一種狂気じみていたと思う。
コナミ業務用からの移植であったプーヤンはともかく、「チャレンジャー」は分かりやすい冒険もので漫画とのタイアップも積極的に行われ、クジラ無敵などの裏ワザの存在もあり、当時かなりの人気を博していたと思う。「バイナリィランド」は、どちらかというと女の子向けの打ち出され方が主軸だったような記憶もあり、小学校で「ファミコンを遊ぶ」という女子も珍しくなくなり始めた時代、このゲームを所持している女子は希少ではなかった筈だ。
ただ、私自身は、当時から「ボンバーマン」にハマる時間が長かった。シンプルイズベストの結晶のようなこのゲームは、対人要素皆無だったファミコン版の頃から既にゲーム的に完成しきっていたと私は思うし、私はハドソンのファミコンゲーム三大傑作の一角が初代ボンバーマンだと考えている。ちなみに後二本は、「サラダの国のトマト姫」と「迷宮組曲」である。
翌1986年、ハドソンから発売されたのは、3/5に「忍者ハットリくん」、6/13に「スターソルジャー」、9/12に「高橋名人の冒険島」、11/13に「迷宮組曲」、12/12に「ドラえもん」だ。迷宮組曲以外は確かすべてがミリオンタイトルになっていた、と思う。
この頃、既にハドソンの戦略は「高橋名人推し」一色であった、ような記憶がある。ハットリくんには高橋名人を模した隠れキャラが盛り込まれていたし、スターソルジャーはいわずと知れたキャラバン作品だし、「ドラえもん」ですら高橋名人がスタッフロールに名を連ねていた。
その点、タイトル画面に連射機能を無理やり盛り込んだ感のある「迷宮組曲」が、他のタイトルに比べれば華やかさに欠けていた印象は否めない。ただ、私自身はこのゲームが当時から大好きだったし、迷宮組曲のBGMは数あるファミコンタイトルの中でも屈指の名曲揃いだったと今でも考えている。迷宮組曲の、いわば「浮遊感」のあるプレイ感覚は、今でも鮮烈なままだ。
1987年に発売されたのは、3/6にミッキーマウス 不思議の国の大冒険、 6/5に高橋名人のBUGってハニー、7/16にヘクター'87、8/7にボンバーキング、10/26に桃太郎伝説、11/16にファザナドゥの6本である。
当時、キャラバン旋風に直接身をさらしていなかった私が遊んだハドソンゲーは、この年「桃太郎伝説」と「ファザナドゥ」に集約された。「桃太郎伝説」はいわずと知れた、「ドラクエ」とは違う方向へ進んだRPGの佳作だったが、当時「風の伝説ザナドゥ」を知らなかった私にしてみれば、「ファザナドゥ」も十分に目新しい良作だった。これについてはいずれまた項を改めて記す機会があると思う。
この前後、PCエンジンに力を注ぎ始めたハドソンは、ゆっくりとファミコン業界での存在感を薄めていった。そして、当時リアルタイムではPCエンジンをもっていなかった私とハドソンの関わりも、日が翳るように薄くなっていった。
1988年5月に発売された「サラダの国のトマト姫」はいわずと知れた傑作AVGだが、この後発売された「亀の恩返し」及び「桃太郎電鉄」は、当時そこまでの注目はされていなかったように記憶している。「桃太郎電鉄」が「パーティゲーム」として完成し、一躍家庭用ゲームの歴史に名を刻みこんだのは1992年、「SUPER桃太郎電鉄」が発売された後の筈だ。
これ以降、スーファミ時代からプレステ・サターンの時代にかけて、ハドソンが段々と「桃鉄」「ボンバーマン」「天外」の三色に染まっていったことは、皆様もよくご存じの通りである。
こうして振り返ってみると、私自身の「ハドソンとの関わり」というものは、1984年から88年、ファミコンがまさに家庭用ゲーム業界を席巻した、その時代と重なっていることが分かる。当時、私と同じような形でハドソンと関わり、ハドソンのゲームを原体験に残している「ファミコン少年」は、決して少なくない筈だ。
ファミコンの黎明期、ファミコンの発展と共にあったハドソン。その事績は偉大であり、忘れられてはならない。同時に、「次世代機」の時代以降、ゆっくりとハドソンが凋落していったことも、残念極まる、しかし否定し得ない事実である。
既にコナミの子会社となっていた「ハドソン」という名前は、3月1日、消滅する。私にとっては、これも一つの時代の終わりであり、かつて私が過ごしたある程度の時間が、完全に過去のものになってしまう、ということでもある。私の中には、感慨と、少しの慨嘆がある。
誰がハドソン殺したの?と歌ったとしたら、わたし、と答えるのは誰だろうか。
今はただ、哀れなハドソンのために、響きわたる鐘の音を聴くのみである。
2012年01月18日
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もう随分と過去のブランドでしたからね。好きなゲームはたくさんありますけれども。
シリーズ展開しなかったのが不思議なくらい人気のある作品ですよね。
あと、失礼ながら本文中の「風の伝説ザナドゥ」は「ザナドゥ」の間違いではないでしょうか。DS][。