2006年10月07日
それはホントに「常識」か?・ポジティブ編
不倒城は元来レトロゲームブログなのであるが、たまにネットの話とかブログ論めいた記事を書くことがある。
たまに、である。しんざきはそーゆー記事をたまにしか書かない。勿論元々レトロゲームブログのつもりであるという理由も大きいし、書きたいテーマが手元にないことが多いということも多いのだが、実はもう一つ大きな理由がある。
「そんなん常識じゃね?」と誰かに言われるんじゃないかなー、と常になんとなく思ってしまうからだ。
Webは広大である。自分が何かの考えを思いついた時、大抵の場合はWeb上の誰かが同じようなことを既に考え、書いていたりする。こればっかりはどうしようもない。自分が何かの考えの創出者、オリジナルである可能性は限りなく低いのだ。
ただ、「既出である」と「常識である」は当然のことながら全く違う。誰かが既に思いついたことだからといって、それが遍く人々の共通知識であるという可能性は、自分がオリジナルである可能性と同じくらい低い。
私はこのことを、つい最近まで実感出来なかった。
思考は脳内で稼動するものであり、知識も常識も脳みその中にある。人間は、脳内でこねくり回したことに実に簡単に馴染む。世の中で一番疑うのが難しいのは、勿論自分自身の考えである。
だから、ある人が「前から考えていたこと」は、その人にとっては「当然のこと」に容易にレベルアップする。少し時間が経つと、「当然のこと」は簡単に「常識」にクラスチェンジする。
だが、勿論それはその人の脳内世界の話であって、他の人が同じ考えを持っている保証も、その考えに賛同してくれる保証も地平を見渡す限りどこにもないのだ。
世の中には多分、自分の頭の中で考えたことを「皆も同じことを考えている」と信じこんで、人に押し付けようとする人がいる。
それと同時に、世の中には多分、自分の頭の中で考えたことを「皆も同じことを考えている」と信じこんで、出力するのをやめてしまう人もいる。
前者はあまり褒められたことではないが、後者は後者でもったいない話だ。当然の様に思えた考えが、他の誰かには案外新しい思考の種になるかも知れないのに。
今までに、「常識じゃね?」「ありきたりじゃね?」という言葉を脳内のどこかに引っ掛けつつ、へこへこと書き綴ったエントリーが幾つかある。
書いてから分かったのだが、案外そんなエントリーに「常識じゃね?」という反応を示す人はいないもんだった。いやまあ、そもそも「常識じゃね?」と思う人はそんなエントリーを軽やかにスルーするんだろうが。
そんなエントリーを「参考になる」と言ってくれた人も時にはいたし、ニュースサイトに取り上げて頂くこともたまにはあった。
Webの大部分は、要するに「既出」の螺旋で出来ているかも知れない。そしてそれは案外あるべき姿なのかも知れない。
「既出じゃね?」とか「常識じゃね?」と思うことも、慎ましく書いていこうかと思う。既出であることは当然として、意外と常識でもないかも知れないと思いつつ。押し付けにならない様に、Webの隅っこの方で控えめに。

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批評だの感想だのについては特に、「すでにある定理を再発見する」ようなやり方も必要でしょうね。そういう行為を経ることによって、やっと自分の中に定着しますから。定着しすぎると問題である、ってのはその通り。
…という話とは全く関係なく、会心のバカダジャレを思いついたが、検索してみたらわんさか引っかかった時のガッカリ感といったらもう。であります。
>批評だの感想だのについては特に、「すでにある定理を再発見する」ようなやり方も必要でしょうね。
その様に考えて既出に対抗しております。
ダジャレに関してはなあ。世の中にはたくさん才能ある人がいますよねえ。
>めあさん
世間一般で言う常識というのは単純に多数決だと思いますが、ここでは「このブログを見る様な人が大体知ってる、既出情報」という意味で使ってます。