先日のエントリーで、「書きたいという欲求」と「反応が欲しいという欲求」について触れたが、考えてみるとあれは殆どあらゆる文芸・芸術表現にあてはまるんではないかという気がしてきた。いや、更にもうちょっと掘り下げて考えてみると当たり前なのだが。
私はケーナ吹きである。ケーナというのは南米の縦笛である。尺八に似ている。尺八に似た楽器で色々と吹く。普段は南米の民族音楽を演奏するが、吹こうと思えば陽水だろうが日本むかしばなしだろうがドラえもんだろうが大抵の曲は吹く。演奏依頼は常時募集中です。
さて、コンサートを開くという行為もブログと似ている。コンサートは、「ケーナを吹きたい」「演奏したい」という欲求と、「お客さんに聴かせたい」という欲求の双方があって始めて成立する。どちらの欲求が欠けていてもあまり良いコンサートにならない点も、人のコンサートをみると刺激されて演奏欲求が高まる点も似ている。
作家も画家も皆おんなじで、度合いの差こそあれ、大抵の人は「表現する欲求」と「褒められたい、見せたい、反応が欲しいという欲求」のざっくり二つに分かれた欲求を持っている。とするとどうもこの二種類の欲求は普遍的なものの様だ、ってだから表現には受信と発信しかないから当たり前なんだってばさ。分からん奴だな。
どうでもいい議論は脇に置いておいて、今日はrasgueadoというギターデュオコンサートに行ってきた。演奏は普通に凄かったし、好みの曲もあり大変楽しませて頂いたが、実は普段他のフォルクローレ・コンサートに行って感じる程の「コンサートやりたい欲求」が喚起されなかった。まあ、ついこの間コンサートを一つ開いたばかりだから、ということもあるのだろうが。
私はギターが弾けない。いや、自分では全く弾けない訳ではないと考えており、実際GとEmとDとD7くらいは音を出せると思うのだが、世間的にはこれは弾けないと評するのではないかとぼんやりと思う。
まあとにかく自分がギターを弾けないが為に、眼前にあるギターデュオの素晴らしい演奏を前に、受信一辺倒で発信欲求をそそられなかったのではないかと自己分析する訳なのである。これが例えばケーナも入ったフォルクローレコンサートであれば、「あ、これはオレも吹ける」だとか、「これはオレならこう吹く」であるとか、なんと言うか公共の場で口にするだに恥ずかしい、しょーもないケーナ吹き的プライドが刺激される部分がおそらくあるのであろう。
とすると、他のブログを見て「書きたい欲求」が刺激される為には、自分もある程度その分野に対して知識・自信をもっていることが必要であると言えるかも知れない、ってこれもエラそうに書いているがごくごく当たり前のことなのではないかという気もする。まあいいが。
話は変わるが、「コンサートのつくり方」というのは、個人的には汲めども汲めども尽きぬテーマである。「演奏者も客も同程度に楽しむ」という理想形というか到達点ははっきりくっきりとあるのだが、さて、そこにたどり着く為の方法論はというと、種類は山のよーにあるわ技術力はいるわやり方次第で金はかかるわ、まあ考えるだに大変だ。いずれ理想論から追っかけてみたいと思っている。
それにしてもギターはずるい楽器であると思う。何せ弦が6本あるのだ。どう考えても、これを一度にじゃらんと鳴らすとそれだけで音が6つ出る。ケーナの方は、一般的に吹いたところナニをどう頑張っても出る音は一つである。6対1。数の勝利。おのれギター。
そんなことをくだくだと書きつつ弦が十本あるチャランゴを爪弾いていたら、奥様がなにやら妙に得意げな顔をしている。理由を聞いてみた。
「ピアノは音の数もっと多いもんねー」
お前はピアノの発明者か。
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ギターもケーナもフレーズ次第。
ここでロングトーンが欲しいっていう時でも、ギターにはトレモロくらいしか手がないですし。
音数を増やしたい時は、人数を増やすとか。
分身?
>音数を増やしたい時は、人数を増やすとか。分身?
いやまあ、厳しい修行をしてまで音数を増やしたい訳では別にないんですが。ギターでロングトーンはなかなか厳しいですね。全力で弦を一本弾いてから、もの凄い勢いでギターをシェイクし続けるとかでどうだろう。
>だむさん
>百人拳?
オレのケーナは殺人空手か。