ちょっと気になった記事があったんだけど、反応が遅れすぎてもう3週間前くらいに終わった話のような気がしていた。今確認してみたら、一応まだ一週間経ってなかった。
久々に見た「要は、勇気がないんでしょ?」メソッドはやはり自分にとって胸糞悪かった
多分もう500記事くらい議論され尽くしていると思うので、一点だけ、議論の本質からは200海里程外れた話をする。
「マックで隣の女子高生が」メソッドと「友達が言ってたんだけど」メソッドは厳密に区別しなくてはならない。
「マックで隣の女子高生が言ってたんだけど」という枕詞を冠につけるというメソッドは、その本質はギャップ効果であり、もう少し言ってしまえばネタであり、発言の責任を他者に転嫁するという機能は、全くない訳ではないのかもしれないが、基本的には副次的効果である。
マック女子高生メソッドの威力
言ってしまえば、ここで現れる「マックの女子高生」という物体は架空の存在であることを了解して読むべきものであり、本気で「そういう女子高生いるんだー」などと真に受けるべきものではないのだ。文脈上の機能的には「昔昔あるところに」だろうが、「子曰く」だろうが「ゲーテの著書にこうあるが」だろうが全く変わりはしない。
ただ、例えば「マックの女子高生がUbuntuの話するわけねーだろ!」といったギャップ効果、あるいは「そんな理由で彼氏と別れるのかよ!」といった脇の甘い突っ込み誘い受けのドーピング効果がこのメソッドには存在する訳で、主要な効果はむしろこっちなのである。
話者の存在/非存在には関係なく、話者を枕につけることでストーリーに彩りを与えること。それが「マックの女子高生メソッド」の本質である。
いわば、「マックの女子高生」というのは、現代における架空の語り部、いわば「村の古老」やサガを記した英雄が現代に蘇ったものに近いのではないか、と私は考える訳である。
一方、「友達が言ってたんだけど」メソッドにおいて、多くの場合「友達」は話者と変わらない立ち位置にある。その為、そこにギャップ効果は生まれない。もし仮にこの「友達」が架空の存在である場合、それは確かに「話の主体を自分とずらすことによって責任を回避する」効果の方が大きいと考えられるだろう。それは批判されるべきテクニックなのかも知れない。私は大した問題ではないと思うけれど。
上記の記事に絡んで言いたいこと、以上。

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そりゃーマックの女子高生はマックとかiPhoneとかアップルの話をするに決まってますよね!