2005年03月24日

レトロゲーム万里を往く その24 〜エンディングの呪縛〜

最初に断っておくが、あまり建設的な話ではないので期待されぬ様に。まあ、このブログに建設的な話を求めている人が一体どこにいるか、という説もあるが。

今回は、ゲームにおける「エンディング」について。

ゲームレビューなどでたまに、エンディングの出来・不出来について言及されることがある。
例えば「○○は良いのだがEDはちょっと」とか、「EDがアレな為に全体が○○に・・」といった筆調が多いのだが、これ、ユーザーサイドの個人サイトのみならず、時には雑誌のレビューなどでも普通に見られることがある。

随分前からこれに何となく違和感を感じていたのだが、最近になるまで違和感の正体について深く考えなかった。今回はちょっと、この違和感について考察してみたい。

先に結論を言ってしまうと、この違和感自体は「EDを評価の内に含めるか、含めないか」という皮膚感の差が原因なのだ。勿論これだけでは考察もクソもあったもんではない訳であって、なら、その皮膚感の差は何に起因しているのか、というのが今回の万里のテーマである。

まず最初に、エンディングとは何か、という話になる。

昔話から始めよう。FCに限らず、昔のゲームには基本的にエンディングはなかった。なかったというか、少なくとも「ゲームの結末」としてのエンディングは存在しなかったと言って良い。

まず、初期レトロゲームの殆どには、そもそも「終わり」という概念がなかった。10面用意されているゲームであれば、最終面が終わればまた1面に戻る、というのが普通であった。FC最初期のゲームに限ってみれば、例外は「ベースボール」「ゴルフ」「麻雀」などの、最初から区切りが決められた遊戯を題材にしたものくらいではないか。

エンディングがないゲームをループゲームという。例えばゼビウスもイーアルカンフーも忍者くんも、用意された枠を越えれば最初に戻るだけの話である。これは初期のゲームに限らず、FC中期以降になっても別に珍しいものではない。

そんな中、エンディングは「おまけ」として始まった。

私が知る限り、一番最初にエンディングに近い画面が提示されたゲームは、ハドソンの「ナッツ&ミルク」だったのではないかと思う。このゲームは全50ステージ、面クリア型のアクションパズルであったのだが、セレクトボタンを押すだけで簡単に次の面に行くことが出来た。ステージセレクトの原型だろう。

しかし、苦労してセレクトボタン無しに全ステージクリアすると、「Congratulations!」のメッセージと共に、画面一杯にハート型の花とミルク・ヨーグルが表示される。まあこの後無条件に二周目に放りこまれはするのだが、これは明確な「ゲームは一旦ここで終わりですよ」の表現だ。

これが「ドルアーガの塔」辺りになると、大分今のエンディングに近い形のものになってくる。何せこのゲームのエンディングにはスタッフロールがあるのだ。おまけに一周目と二周目ではスタッフロールの内容も変わって、ニ周目ではモンスターや登場キャラクターなどのキャストが流れる様になっている。ゲームの難易度に基づく達成感、及び印象的な音楽から、記憶に残っている人も多いのではなかろうか。

実際ドルアーガのエンディングへの力の入り様は凄まじく、この後もしばらくは、これ程気合の入ったエンディングは見られなかったのではないかと記憶している。例えば「グーニーズ」や「迷宮組曲」など、時代を下って86年に至った佳作アクションでも、いわゆるエンディングは「一枚絵とメッセージ」という形式が基本であった。このパターンから外れるのは、例えばワルキューレの冒険やハイドライドスペシャルなどの黎明期RPGや、水晶の龍などの一部AVGのみである。

ここで挙げたゲームの中では、やはり「ワルキューレの冒険」辺りが、エンディングとしてはかなり印象的だったのではないだろうか。ゾウナとの闘いがかなり特殊なものであったこともあるが、時の鍵を時計に差し込んだ瞬間に始まるエンディングなどは、色濃く「物語の終わり」を感じ取ることの出来るエンディングだった。ナムコ恐るべし、という感がある。

さてさて、ここで一つ問題提起をしてみたい。エンディングとは、「おまけ」か?「結末」か?

「おまけ」から始まったエンディングであるが、87年以降になってくると、段々とエンディング自体にもクオリティが求められる様になっていく。そして、かつては一般的であったループゲームも次第に姿を消していった。ゲーム業界の潮流というものは、ほぼユーザーのニーズと一致する。

87年のアクションゲームというと、例えば「月風魔伝」とか「悪魔城ドラキュラ2」「ロックマン」「アルゴスの戦士」などが挙げられるが、いずれもある程度力の入ったエンディングをもったゲームばかりである。

この辺のタイトルを見てると、一つ共通点がある様にみえる。「ゲーム内の物語性の有無」という問題だ。

ゲーム最初期のバルーンファイトだのアーバンチャンピオンだのには、ゲーム中に露出するストーリー性というものはひっじょーーーに薄かった。でっち上げてみれば面白いかも知れないが、風船おじさんがロシア上空でKGBの風船ヒットマンズと戦う話でもないし、格闘家が俺より強い奴に会いに行く話でもない。

つまり、背景となるストーリーがどうあれ、「物語」ではなく「遊び」だった訳だ。本来遊びに結末はない。飽きるまで続くし、疲れたら終わりである。

それが、86年、87年になるにつれ、今までは単なる「遊び」だったゲームも、次第に物語性を増していく。つまりは、映画や小説の要素を取り入れていく。これは、ある程度「ゼルダ」や「ドラクエ」の様なRPGの台頭によるもの、と考えて差し支えないだろう。

小説や映画には結末が必要不可欠である。結末の3ページが切り取られた小説は欠損品でしかない。物語性が高いゲームであれば、エンディングは作品の一部として重要になっていく、ということになる。

つまり、「エンディングとは「おまけ」か「結末」か?」という質問は、「ゲームは遊びか物語か?」という質問に言い換えることが可能だ、という話になる訳である。

さてさて、エラいこと長くなってしまった。ちょっとここで一度区切らせて頂きたい。次回の「万里を往く」で、引き続きこのテーマについてもう少し掘り下げてみたい。別に現代のゲーム界の風潮に警鐘を鳴らすとか、どっかの会社のゲームはゲームとしてあーだこーだとか、難しいことは一向に考える予定はないのでご安心頂きたい。

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続きはこちらに。
レトロゲーム万里を往く その25 〜エンディングの呪縛・2〜

テーマは、「あまり意味のないことを全力で考察」。
posted by しんざき at 16:09 | Comment(5) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
いくぜ!100万台!!

…言ってみたかっただけです。
Posted by bari at 2005年03月25日 09:17
ゲームって容量が増えるに従い、一周が長くなってますよね。
そうなると、単発でゲームとして遊ぶには時間が足りず、続きはまた明日となる訳です。
次の日まで続けてやらせるにはTVドラマ的な期待感を持たせる必要があるから、物語性が生じるという流れのように感じます。
Posted by いす at 2005年03月25日 11:31
>bariさん
>いくぜ!100万台!!
プレステだっけサターンだっけそれ。なんか無意味な気合の入りようが当時から好きなフレーズだった。

>いすさん
>そうなると、単発でゲームとして遊ぶには時間が足りず、続きはまた明日となる訳です。
ふむ、なるほど。それはあるかも知れないですな。容量か。
続きで触れさせて頂くかも知れず。
Posted by しんざき at 2005年03月25日 16:00
ある本でクソゲーランキングを付けていたのですが、理由種別の中に「エンディングがダメ」みたいなのがあったのを思い出しました。
「んなこと言ったらスーパーマリオだってクソゲーじゃん」と呆れたものです。
あと、ループゲームでも「グラディウス」や「ファンタジーゾーン」にはエンディングがありますね。
Posted by ハイゼン at 2005年08月17日 06:48
>ハイゼンさん
コメントありがとうございます。ループゲームでエンディングがあるものも結構ありますね。迷宮組曲とかもその内ですか。

>「んなこと言ったらスーパーマリオだってクソゲーじゃん」と呆れたものです。
多分、レトロゲー畑の人とは感覚がちょっと違うんでしょうね。私なんかは「エンディングはおまけ」の感覚が染み付いていますけども。
Posted by しんざき at 2005年08月18日 13:25
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