世の中には原作厨という生き物がいる。
ある作品について、映画版と原作があった場合、原作の方を無条件で信奉して、映画版だけしか知らない人に対して無闇に原作を勧める、あるいは映画版しか知らない人を見下す、といった行動をとる人たちであり、一般的には嫌われる傾向にある、と思う。
ところで、私はある三つの作品に関して原作厨である。
映画版しか知らない人を見下す気は毛頭ないが、少なくともこの三作について、映画版しか知らない人がいれば私は強力に原作を勧める。買え、と言う。買って読め、という。
その三つの作品とは、ゲド戦記、はてしない物語、そして風の谷のナウシカである。
本エントリーでは、映画版ナウシカと原作ナウシカの重要な違いをいくつか挙げ、以て原作ナウシカを読む理由として論じたい。Webにおいては気が遠くなるほどに既出話だろうが知ったことではない。一応、ネタバレは可能な限り避ける。
・理由その一:映画版には土鬼(ドルク)諸侯連合が出てこない。
そもそも映画版ナウシカは、全七巻構成である風の谷のナウシカの、二巻の時点で作成されたお話である。
その為当然といえば当然なのだが、お話は原作に比べて大幅に削られている(というかその時点で存在してない)し、登場しないキャラクター、描写されないエピソードも山ほどある。基本的には、3巻以降のエピソードは全て丸々映画版には存在しないと考えていい。
その中で、お話全体にとくに深くかかわってくるのが土鬼(ドルク)諸侯連合である。
原作において、ナウシカ世界は「二大勢力とその周辺勢力」の関わり合いを中心に描かれている。二大勢力というのはトルメキアと土鬼(ドルク)諸侯連合であり、風の谷はペジテ市などの他小都市と共に、基本的にはトルメキアに与する勢力「辺境諸国」として、二大勢力の争いに巻き込まれていく立場である。
この「巻き込まれる」というのが重要な点で、勢力としては「風の谷」も「ペジテ市」も徹頭徹尾脇役である。原作には、「辺境諸国」や「蟲使い」や「森の人」などを含め、様々な脇役勢力が山ほど登場する。そういった、「大小無数の勢力のそれぞれの代表者が繰り広げる群像劇」みたいな側面も、原作の重要な要素の一つだったと思う。
ところが映画版では、土鬼という二大勢力の片割れがすっぽり抜けている為、シナリオ上重要な場面となる「王蟲の暴走」を起こす勢力がペジテ市になっている。そして、風の谷はトルメキアから侵攻を受ける立場となっている。映画世界においては、「風の谷」と「ペジテ市」は、トルメキアと並んで完全に「物語の当事者」である訳だ。
結果的に、勢力図だけみると、映画版は「トルメキア」「風の谷」「ペジテ市」で完結してしまっている。
このことがお話に与える影響は大きい。土鬼の関係者が全部丸々出ないのは当然のことだとしても、原作における「ナウシカ世界の広さ」みたいなものは、映画版では完全に捨象されている。
世界の広さを味わえない。これが、「原作を読むべき理由」の一つ目だ。
ちなみに、断っておくのだが、私は「映画版も原作のような勢力立てにするべきだった」とは思っていない。
仮にナウシカが七巻まで出た後に映画版が作られていたとしても、映画版の構成はやはり二巻くらいまでにするべきだったと思う。二時間でそれ以上の内容を描くのは、何をどう考えても無理がある。二時間で起承転結を作るには、どうしてもシーンを絞る必要があり、その点「二巻まで」という区切りはストーリーとして恐らく最適だ。
とはいえ、映画版は映画版での完成形であるにしても、やはり原作での「ナウシカ世界の味わい」というものは是非読んでみるべきだ、と私は思う訳なのである。
・理由その二:映画版ではキャラクターの立ち位置がちがう。
端的にいうと、映画版ではクシャナさんが悪役である。
その一で述べた勢力の描写の問題で、映画版の劇中、トルメキアは「風の谷に侵攻してきた大敵」として描写される。その為、クシャナさんは「当面の敵のボス格」という扱いであった。これは大きな問題だ。
勿論原作においても、登場当初クシャナさんは悪役寄りの立ち位置だった。ただ、彼女の目的は飽くまで秘石であって侵攻ではなかったし、族長のジルはトルメキア軍によって殺されたりはしなかった。かつ、2巻までの時点でも、クシャナさんは要所要所で器の大きさを見せつけていたし、映画版にところどころあるような悪役的台詞もほとんど見られなかった。
ちなみに、クロトワさんの扱いも随分異なる。原作においては、クロトワさんは当初「トルメキア上層部同士の確執」を体現するような立ち位置にあった。トルメキア上層部のさまざまな思惑がクロトワさんを通じて描写されることによって、クシャナさんのキャラクター、クシャナさんの事情にも深みが出ていた訳である。
クロトワさんが切れ者っぷりを随所随所で発揮し、クシャナさんとの駆け引きの末、クシャナさんの部隊の参謀格に納まる絡みは、非常にいい味出しまくりな原作名シーンの一つであると思う。
「それとも破滅への罠か」のくだりは、映画版の聊か芝居がかった台詞よりも、原作の方がシブくてかっこいい、とか思ったりもする訳である。
一言でまとめると、クシャナさんもクロトワさんも原作の方がかっこいい。
そのあたりについても、映画版では相当部分が捨象されている。仕方ないこととはいえ、少々残念だ。クシャナさんがナウシカの裏の主人公であることは今更言うに及ばないが、特に3巻、4巻辺りの主人公は間違いなくクシャナさんとクロトワさんである。読むべきである。
・理由その三:3巻以降には怒涛の名シーンが山ほどある。
勿論1巻、2巻にも十分に名シーンはあり、それは映画版に生かされている訳なのだが、正直なところ3巻から向こう、ナウシカは怒涛の展開、名シーンの連射である。
なにをどう言おうと、映画版には第三軍の攻城戦がない。マニ族の僧正やチャルカが出てこない。ケチャやセルムが出てこない。粘菌が出てこない。神聖皇帝ズが出てこない。皇兄とユパ様の絡みがない。クロトワとミトたちの絡みがない。ヴ王も出てこない。オーマが出てこない。当然ながら墓所すら出てこないわけである。こればっかりはどうにもフォローの仕様がないところなのである。
その一で挙げた土鬼(ドルク)諸侯連合にも、本来味のあるキャラクター達が山のように登場し、それぞれに様々な思惑を持って動きまわっている訳だ。そういった、「広いフィールドで、たくさんのキャラが動き回っている感」も、原作版ナウシカの重要な味の一つだったと思う。読むべきである。
ところで、超個人的になのだが、「映画版より原作の描写の方が好みでない」というキャラクターが一人だけいる。
主人公のナウシカである。
様々なところで言われているとは思うが、原作中盤以降、ナウシカは少々重いものを抱えこみ過ぎ、キャラクターから若干人間みを失っているように感じる。まあシナリオ上仕方ないことなのだとは思うし、その分周囲のキャラクターが魅力あり過ぎなのでいいのだが。この辺りは、是非原作をお読みになってご判断頂ければと思う。
ということで、あなたが映画版ナウシカを見ている見ていないはもはやあまり関係なく、とりあえず「風の谷のナウシカ」全7巻を買って通読すべきである、と再度断言して、このエントリーの〆としたいと思う。
はてしない物語についてはまたいずれ。
僕は小学生のころ映画版の内容がサッパリ理解できず、マンガを読んだ記憶が。
そしてさらに混乱したと言う。
最終巻がまだ出てなかったからな。。。
あれ、なんで10年近く連載とだえたんですかね。
無くナウシカの最終巻を読んでたんですが、あることに気が付きました。約30年にして回帰したんですかね、まさにというフレーズが有りました。
是非見付けてみてください。
私もゲド戦記、はてしない物語、そして風の谷のナウシカは原作派です。
はてしない物語についてのブログ記事を読みたいです。あれも映画版と原作はかなりテーマが違ってますよね。
ぜひいつかブログで書いてください!