ある意味漢らしいとは思うのだが。
「国の発表を信じてはいけない!」とか、「政府の言うことは嘘だらけだ!」という人は、割と高い確率で、ソースとしてWeb上のニュースなり、一個人のブログに書かれた体験談なり、一ジャーナリストのツイートなりを引っ張ってくるように思う。
いやまあ、国や政府の発表に時に誤謬が混じるのは確かによくあることだし、もしかすると隠蔽や捏造が混じっていることもあるのかも知れない。それを否定する気は別にない。
ただ、誤謬が混じったり捏造の可能性があるのは個人の情報もそれ程変わらないわけで。目立ちたがりーぬな人が創作の才能をつぎこんだエピソードが実話として流布されまくるというのもよくある話なわけで。
直接情報源の人を知っているのならまだしも、回りまわってきた見ず知らずの人の情報を頭から信じこんで「やはり国の発表は嘘だった!!」とか脊髄反射するのは、若干純真過ぎるのではないか、と思ったりもするわけである。そのピュア度はドリームクラブのそれに匹敵する。
結局ソースの妥当性の検証など放り出して、自分の信じたい情報を執念深く見つけ出してくるのであれば、最初から情報ソースなど要らんのではないかと思うこともある。
その点、なんら外面を取り繕うことなく「ある情報筋によると」などという一言でソースの提示をすませ、以下自分ワールドを繰り広げる扇動屋さんはある意味首尾一貫していて偉い。もっと頑張れ。超頑張れ。
2012年04月12日

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卒業のない熱病の果てに
Excerpt: その昔、子供になにか言いつけたら「先生はこう言ってたもん!」と反抗されてムカついた、という経験をしなかった親はいないんじ
Weblog: CONCORDE
Tracked: 2012-04-14 20:53
矛盾点を指摘されても「工作員だ!」と、自己弁護に終始するのみで。
特に気の利いたことは書けませんが。
まあ、個人が書いたものだと色んなしがらみがない“だろうから”本音トーク“のはず”、
だから信じてもいい“はず”、ということなんでしょうが。
自説に都合がいい情報を提供してくれる人のことを、
真実を語ってくれる人と勘違いするケースはありますわね。
引っ張ってきた情報元のブログなんか見ると、その筋では有名なプロ市民だったりもするし。
社会的地位の高い人、と思ってみると、とんでも業界的にはおなじみさんだったり、ってのはよく聞きます。
ともあれ、自分のとって大事な情報であれば、矛盾する情報こそしっかり集めないといかんわけで。
いつも思うのは、どこの誰でもなにがしかのバイアスはかかっていて、それは自分も目の前の同士ですらも、ということ。
バイアスのかからない意見なんてのは皆無なんだよね。
信じる信じないを問わず「こういった情報がある」という提示は議論の上で新たな展開を切り開くことも多いはずです。要はその情報から何を導き出せるかが問題なのであってソースが必要か必要でないかの差は、こと議論ではあまり重要ではないと考えます。
聴き手はソースの不確かな意見を一蹴すべきか、それとも意見が出たこと自体に何らかの予兆を見出すか、単にこの違いだと思われます。
個人的には「最高の熟慮を積み重ねれば最高の結果を得られる」が至論なので情報に対してソースを要求する時は案件をある程度煮詰めた後に、その決定打として相応しいかどうかの判断の際に行うものだと考えています。
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
「人は信じたいものを信じる」という言葉の真実味が、ネット社会になって予想以上に表面化し始めてる気がして寒気がします。
「自らのファンタジーの死守」よりも「真実への探究心」を大事にする精神性が流行ってほしいものです。「疑う心」の地位がもっと向上しますように…。