さてさて、呪縛シリーズの最終回である。我ながら妙に引っ張ったなーと思う。
とはいえ、実のところ「ストーリー」とか「エンディング」について言いたいことはもう8割方言ってしまった。もともと私は単なるレトロゲーマニアであり、現在のゲーム業界だのゲームの傾向だのにそれ程深い意見を持っている訳ではないのだ。前2回のエントリーは、言ってしまえば浦島太郎が現代社会に対して抱く違和感を言語化したものに過ぎない。
まあそれは自覚した上で話を進めるとして。その24において、そもそもの発端は「エンディングを評価に含めることの違和感」だった。今回は、少しその話に戻りたい。
一応、前2回のリンク。
レトロゲーム万里を往く その24 〜エンディングの呪縛〜
レトロゲーム万里を往く その25 〜エンディングの呪縛・2〜
そもそも、ゲームにおける「クリアの比重」ってどんなもんなんだろうか。
このブログはレトロゲームブログであるからして、例によって昔話から始めてみる。非建設的と言わば言え。
レトロゲームにはエンディングがないループゲームが少なくなかった、と「その24」で書いた。ループゲーム全盛の時代が過ぎてもしばらくは、エンディングとか割とどーでもいいというか、そもそも「クリアすること」が前提にされていない、というゲームが多く見られる。というか、FC前期〜中期ゲームの8割方はそうだった様に思う。この中には、「クリア」というものの位置付けが非常に低いゲームもあれば、どう考えてもクリア出来ない様に作られているとしか思えないゲームもある。頭脳戦艦ガルとか。
こーゆーゲームは勿論「クリア」を目標にすることなく遊ぶことになる訳で、それで楽しいのか?といわれると、これが実に楽しいのである(頭脳戦艦ガルが楽しいかどうかは人それぞれだが)。それは何故かというに、ゲームをやる目的自体が「クリアすること」にはなかったから、ということに他ならない。
エンディングが存在しなかったら何の為に遊ぶのかというと、それは勿論「楽しむ為」に遊ぶのだ。クリアという目的が重要でない中にあって、プレイヤーは様々な遊び方を自ら開発していった。例えばバルーンファイトで敵を池に落っことすことに血道を上げたりとか。ソロモンの鍵で、鍵をシカトしてお絵かきに興じたりとか。ハイスコアという概念も、「クリアとは無縁な遊び」の代表格ではないかと思う。勿論ゲームの本線から外れた操作ばかりの話ではなく、とにかく「クリアを前提としない楽しみ」というものが前面にあった様に思う。
これは完全な好みの問題だとは思うのだが、こういった「ゲームの目的をシカトした遊び」というものが私はなんとなく好きである。プレイヤーがやりたい様に遊ぶことが出来る、遊びの純粋な形だということもある。メーカーの規定した路線から外れる楽しみもある。自分の自由意志でどこまでもゲームを掘り下げることが出来る、ということも大きい。
やがてストーリー型のRPGなどの台頭が起こり、ゲームに一続きの物語性が生じる様になると、「クリア」という区切りの重要性は段々と増していく。勿論ジャンルによって色々ではあるのだが、エンディングまで続く一つの作品として、プレイヤーに「エンディングを目指す」という目標を明示するゲームは明らかに増えていった。ゲームが自ら「クリアしてください」という継続要求を出す様になっていった、という言い方も出来るだろう。
先ほども言ったが、これは良いも悪いもない、単なる好みの問題である。「クリア」の比重が高いことが良くない、などと言うつもりはない。ただ、この「クリアへの強制」という類の圧力を感じてしまうと、どーもなんというか、私はくたびれてしまうのである。ゲームを始めてしまえば「クリアしなくてはいけない」という圧力がかかるが故に、クリアしないままに買うだけ買って置いておく、いわゆる「積みゲー」を有している人も少なくないのではないだろうか。
さて。話は「最近のゲーム」に推移する。断っておくが、だから昔のゲームは良かったよね、といった類の懐古話にするつもりは毛頭ない。実際、現代でも「クリアとか割とどーでもいいゲーム」というものは出続けているし、プレイヤーは様々な「遊び」を開発し続けている。
例えば、隆盛も今は昔という気もしないではないが、格闘ゲームなどは「クリアの重要性が低いゲーム」の代表格だろう。ゲーセンの対戦台を眺めてみれば、殆どの人間の目的は「他の人と対戦をして勝つ」「上手くなる」という目標に特化される。メーカーの意図から外れるということはないだろうが、対戦格闘の隆盛があったことも、一面この辺に理由があるのかも知れない。このテーマはまたいずれ。
また、クリアの重要性が低いゲームというと、やはりネットゲームに触れない訳にはいかないだろう。ネットゲームには、基本的にラスボスとかエンディングとかそれ程重要でないゲームが多い様だ。勿論現在のネットゲーム業界には様々な問題もあり、楽しい反面「レベルを上げる」という特化した目的にエラい時間がとられるゲームもあるという話だ。この辺り、改善の必要も色々とあるのだろう。大航海時代ONLINEはやってみたいのだが。
パッと思いつく感じで格ゲーとネットゲーの二例を挙げたが、実際のところどうなのだろう。最近のゲーム、「クリアの重要性」は高いのだろうか低いのだろうか?
上記の例もその内なのだが、容量が増えた、表現出来ることが増えた、それによってプレイヤーが色々な遊びを見つける余地も増えた、かというと、どうも一概に上手くは行っていない様な気がしないでもない。勿論「遊べる」ゲームが発売されていない訳ではないのだが。ゲーム内の「演出」に注力する余り、「エンディング」を求める、という以外の目的が用意されていない、あるいはそれ以外の「遊び」が見出せない、というゲームは案外少なくないのではないだろうか。
メーカー側だけの話ではないのだが、一つには「エンディング」という区切りが強力過ぎたのかなー、という感もある。ゲームを「完結」させ、プレイヤーに達成感を与える手段として。また、ゲームに物語性をもたせて、「演出」で売る為の手段として、エンディングは実に明確な方法であり、いつのまにやら必要不可欠なものになってしまった。
飽くまで私の好みとしていってしまえば、ゲーム内でプレイヤーに残された「遊び」の余地は多ければ多い程楽しいし、エンディングなんかどうでもいいと思える程にいろいろと遊べるゲームを是非今後とも遊びたい。何故かというに、ゲームは私にとっては「物語」ではなく、徹頭徹尾「遊び」だからだ。
そして、「エンディングはしょぼいけど、まあエンディングなんかどうでもいいや」とか、「エンディングが地味な故に、想像の余地が非常に大きい」とか、そんな評があちこちで見られる様になれば、80年代末から始まった「エンディングの呪縛」はようやく消滅し、私がやりたいゲームもさぞかし増えるのだろうなーと、そう思うのである。
えらい長くなった。エンディング話、以上でおしまい。次回からは、またしばらくレトロゲームのタイトルとかジャンルを取り上げて、うだうだとこねくり回すスタイルに戻るかと思う。
---------------------------------------------------
(追記 05/04/13 10:17)
補足。頂いたコメントを読んで、私の中で明確になったこと。
そもそも「エンディング」っていうのは映画や小説の概念な訳で、元来「遊び」であるゲームにエンディングは必須なのか、と言われるとそうでもない気がする。元々遊びは「疲れると終わり」なのであり、区切りはどこなのか、と言われると「任意」としかいい様がない。
まあこれはゲームをどう捉えるか次第であって、「作品」と考えたゲームにはエンディングは必要不可欠なのだろうと思うが。実際問題、やっぱりエンディングがあったらそりゃ見たくなるし。
2005年04月12日
この記事へのトラックバック
[ゲーム考]エンディングが無くても泣くんじゃない
Excerpt: エンディングは目標であり、目標はルールである、すなわち、エンディングはルールといえると思います。ではちょっと堅苦しく”人生”なんて言ってますが。。 RPGとアドベンチャーには目標としてゴール地点であ..
Weblog: Try to Star -星に挑め!
Tracked: 2005-04-13 01:47
ソロモンの鍵
Excerpt: ソロモンの鍵『ソロモンの鍵』(そろもんのかぎ)は、1986年にテクモによりアーケード向けおよびファミリーコンピュータ向けに開発・販売されたアクションパズルゲーム、あるいはその関連作品である。関連ゲーム..
Weblog: 【ソロモンの鍵】
Tracked: 2005-05-16 17:21
あのエンディングは…
Excerpt: 「エンディングドットコム」なるサイトがあります。 あのエンディングがどうだったか気になるけれど、時間的に、難易度的に、**的に2度はできないようなゲームを積極的に載せて欲しいですね。 …「エアーズ..
Weblog: 朕竹林 ??ネットはテキストだ??
Tracked: 2006-03-19 21:30
回転率を上げるためって見方はどうでしょうかw
ループ系に見られる特に目的の無い物は業界全体としての発展が乏しいのにくらべ
一度終われば二度とやりたくなくする。飽きられるペースを劇的に早くするためにストーリーを載せ・・・本末転倒ですか
しかしエンディング以外の区切りっていうのはイマイチ思いつかないのですが何かありますかね
>一度終われば二度とやりたくなくする。
うーむ、なるほど。面白い見方ですね。
私は元々ゲーセン畑の人間なんで、「何度も繰り返してプレイしてもらう」ということがメーカーにとっていいこと、みたいな認識があって、気づきませんでした。
>しかしエンディング以外の区切りっていうのはイマイチ思いつかないのですが何かありますかね
ゲームの区切りっていうと、他にはあんまりなさそうですね。ただ、そもそも区切りってそんなに必要なん?という気もしないではなく。
共感できるよ。
-------------------------------------------
大航海onlineの場合は逆かな。キャラげーであると思ってるからストーリーをたっぷり楽しみたいのだが、ネットゲーゆえ小出し小出しにされてしまう。なにしてるんだろ、いま? とよく途方にくれる。 また、そのエンドレス感に自分はたえられないとわかった。
初期のWIZなら3種の神器を揃える事とかアイテムコンプリートとか・・・RPGなのにエンディングそっちのけですね。
コメントありがとうございます。上の表記、結果的に呼び捨てになってしまっていたらエラいすいません。
>キャラげーであると思ってるからストーリーをたっぷり楽しみたいのだが、
なるほど。自分の中にはあんまり、大航海時代がキャラゲーという意識がなかったんですが、4とか外伝のイメージなんでしょうか?
私は2ばっかやってた人間ですので、感覚が違うのかな。
>なぽさん
>初期のWIZなら3種の神器を揃える事とかアイテムコンプリートとか・・
ウィザードリィ程「エンディングとか割とどうでもいい」RPGもないでしょうね。あのゲームで「エンディングがしょぼい」とか言われても笑うしかないですし。
で、区切りに関しては補足してみました。
初期のエンディングのないループするゲームというものは、終わりが無いという不気味さが、一種の混沌とした雰囲気を醸していたように感じます。それが他の娯楽とは違う、一つの独立したジャンルを確立していたようにも・・・。
また、プレイヤーキャラの死に方一つとっても
点滅・爆発・炎上→焼失など
普通に考えたら理不尽なものばかり(死因も含めて)だったのもその一因ではと思います。あまりにも自分(の分身)が非力でぞんざいな扱いという。
でも、その命の軽さが逆にテンポの良いリズムを生み出していたと思うわけでして、第三者から与えられたストーリーが無い分、自分をプレイヤーキャラに直結しやすかったと思う方は多いはず。これは練られたストーリーありきでは絶対出せない味です。
私的なことですが、動画の閲覧サイトで見るゲームの動画は前者のもので無いとあまり見る気がおきません。長文失礼致しました。
>初期のエンディングのないループするゲームというものは、終わりが無いという不気味さが、一種の混沌とした雰囲気を醸していたように感じます。
な、る、ほ、ど、その辺のゲームにどっぷり漬かっていた人間としては、あまりなかった視点なので新鮮です。
>また、プレイヤーキャラの死に方一つとっても
点滅・爆発・炎上→焼失など
普通に考えたら理不尽なものばかり(死因も含めて)だったのもその一因ではと思います。あまりにも自分(の分身)が非力でぞんざいな扱いという。
上に同じw
初期のゲームの死にアクションが突拍子もなかったのは事実ですよね。これも、ゲームが「遊び」だったことの一つの側面ではあると思いますが。
エンディングじゃなく、制作スタッフの紹介で良いのにといつも思っています。
いっそのこと、初めて起動するときにスタッフロールから始まってもいい。次回以降はタイトル画面からはじまると。
アーケードゲームの刹那的な始まりと終わりは大好きなんです。
今でもクレタクやF-ZERO GXみたいな遊んでいて「なんじゃこりゃあ!」
と突っ込みたくなるような破天荒な世界を楽しめる作品が多く出て
こないかなぁと願っています。
>アーケードゲームの刹那的な始まりと終わりは大好きなんです。
同感です。個人的な好みとしては、ストーリーは脳内妄想に任せるくらいで丁度いい、とか思ってます。