2012年10月24日

「結婚」や「幸せ/不幸」をテーマに、Webの論調についていくつか考えたこと。

○Webでは「不幸なテキスト」が目立つよなあ、という話

以前も似たようなことを書いたが、特にWebにおいて、「幸せ」というものは「不幸」に比べて可視化されにくい。

理由は多分幾つかあって、

・幸せは人を充足させるので、「それについて誰かと共有したい」という新しい欲求を生みにくい。
・「幸せであること」を主張するのは「自慢」と取られ勝ちであり、自慢は反感を買いやすいという意識がある。一方自虐は主張しやすい。
・「他人の幸せ」よりも「他人の不幸」の方がコンテンツとして面白いことが多い。その為、後者を可視化した方が承認を得られやすい。
・上記に関連することだが、「他人の不幸」には、助言、提案、上から目線からの罵倒など、様々な反応を寄せやすい。一方、「他人の幸福」には、極端な話「良かったですね」という以外の反応を寄せにくい。
・「幸せであること」を主張すると、「○○は不幸なのにそんな話をするなんて!」といった攻撃をされることが実際にある


というようなところが大きいと思う。

その為、Webで観測出来るテキストは、原理的に「不幸を表現しているもの」に偏りやすい、と思う。勿論これは観測範囲にもよるだろうし、例外もあるんだろうけど。

つまり、Webにおいて「不幸な言論」を見た時は、それは飽くまで可視化された結果であり、「幸福な言論」もそれと同じくらいのケースある筈だ、ということは認識しておくべきなのではないか、と思ったのだ。

で、私自身は、「不幸ばかりが可視化される」状況はあまりよろしくないと思っているので、上記様々な要因にもめげず、幸せな人は幸せを可視化するべきだし、私自身もなるべく幸せを可視化していきたい、と考えている次第なのである。



○結婚している男は幸福なのか不幸なのか、独身の老後は幸福なのか不幸なのか、という話

そんなん一般化して語るのは無理に決まってんだろう。

Webに限らない話かも知れないが、「結婚するのは幸せなのか不幸なのか」という話が、男女の性差に絡んで論じられる機会は非常に多い、と思う。私の観測範囲が偏っている可能性は否定しないが、それでも「結婚 不幸」辺りでぐぐってみた時の結果を見れば、上記議論がポピュラーなテーマであることは分かるだろう。

そして、当たり前のことだが、結婚して幸せになるか不幸になるかは結婚する当事者次第であり、一般化出来る可能性はこれっぽっちもない。幸せな結婚もあれば、不幸な結婚もある。そして、これは夫婦間の関係性とか、経済状況とか、お互いにどれだけ歩み寄れるかであるとか、様々な要素に由来する。勿論、「独身が不幸か幸福か」というのも人によって違う。従って、「人それぞれ」以外の結論は出ない

こんなことは当然の話だと私は思うのだが、議論に白熱している人達は分かっていてやっているのか、それとも分からずにやっているのだろうか。

「どうすれば幸せになれるのか」といった技術論や、「どういう状態なら不幸といえるのか」といった定義論ならまだしも、「結婚することは不幸か幸福か」といった一般化議論が白熱するのは、私にとっては本当に理解の埒外の出来ごとである。

だというのに、Webではどちらかというと、「不幸な結婚」の方がクローズアップされがちであると感じるし、これがあんまりよくない影響を及ぼしている側面もあると感じる。

「不幸になるリスク」というものは多分あるのだろうし、「幸福になるリターン」も多分あるのだろう。Web上で結婚について一般化して語る時は、それが飽くまで「リスク・リターン」の話であり、実際には自分と相手次第の話である、ということは最低限承知しておくべきではないか、と思う。


○結婚は男女いずれに負荷がかかるか、という話

これも人それぞれ家庭それぞれであって、一般化して語る話じゃないとは思うのだが。

なんか、「主婦というあり方批判」と結び付けて、「女ばかりに結婚のメリットが」みたいな結論に着地させるテキストを見る機会が最近あって、一概に「男は外で稼いできて超大変、主婦は引きこもりで楽が出来ていいよな」というような文脈で語られていたので、飽くまでその文脈へのカウンターとして、私から見た、私の家庭における、「主婦めっちゃ大変なんじゃね」という話を書いておこうと思う。くれぐれも一般化して読まないで頂きたい。

まず、私の家庭の状況を簡単に書いておく。

・私は会社員、奥様は長男が産まれて以来専業主婦。
・家族構成は私、奥様、長男5歳、長女次女の双子10ヵ月。

で、私が思う「奥様大変ポイント」なのだが、

・とにかく一人の時間がもてない。
・子供が泣くと、その時点のワークを中断して駆けつけないといけない。その為、効率が非常に悪い。
・定期的な作業(食事の用意など)と不定期な作業(子どもが泣く、おむつかえなど)が同時並行で発生するので、優先度づけが物凄くシビア。
・双子を食べさせたりお風呂に入れたりとかは本当に阿鼻叫喚。そんな中、だいぶ手が離れてきたとはいえ長男坊の世話もしないといけない。


上記は子供がいることに絡んでの話だと思うが、子供がいなくても下記のようなポイントはある。

・私もある程度分担しているとはいえ、家事の主体が飽くまで奥様であるということは否めない。
・家事には基本的に「ゴール」「達成ポイント」というものがない。やらなくてはいけないことが無限に出てくる。
・家事を遺漏なく実施したことに対して「評価してくれる人」が極めて限定されている。また、一般に達成基準が非常に高い(私は緩い方だとは思うけど)。その為、承認がきわめて得られにくい。
・自宅イコール職場であるので、職場で過ごす時間が非常に長く逃げ場が少ない。

これ結構無理ゲーだと思うんだけど、これを日常さばき続けている奥様には本当に敬服する。そして、常日頃上記のような状況と戦っている主婦の人は、もっと評価されるべきだと思う。

うちの奥様は幸い完璧主義ではないのだが、それでも「稼いできてくれるから」ということで私をサボらせてくれることは結構多く、その分奥様に負荷がかかっていることは否めない。可能な限り私からも手を出さないとなーと思うし、ねぎらえる機会があれば逃がさずねぎらいたい、と改めて思った。


○まとめ
・Webでは、基本「幸せ」よりも「不幸」の方が可視化されやすい。
・結婚生活を一概に「幸せか不幸か」で論ずるのはあまり意味がないと思うし、その上なんとなく「不幸寄り」の言論が支配的なのはあまり納得いかない。
・一般論からは離れるが、私自身については、幸い非常に幸せな結婚生活を送れていると思う。
・そして、今後とも非難を覚悟の上で、可能な限り「自分の幸せ」については可視化していきたいなーと思っており、そういう向きがもっとWebに増えるといいなー、とも思っている。

長くなったのでこの辺で。



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posted by しんざき at 12:39 | Comment(4) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
不幸な情報と幸せな情報のバランスが等しくあって欲しいと思う。なぜなら、事を始めるに当たってネットでの情報収集が当たり前になってしまった現代において、そのバランスが偏ってしまうと、とっかかりに影響が強くでてしまうから。偏っているとわかって見られればよいが、これから成長して行く子供たちに最初からそれを望むのは酷。
情報源は大概アンバランスであるということを、体験させるいい方法がないものか。
Posted by ひげめがね at 2012年10月24日 14:26
 論旨とはちょっとずれてしまいますけど、今どきは専業主婦そのものが多数派ではなかったりもしますしね。

 結婚する、イコール女だけが楽になってズルい、という発想は、前提条件の段階からして既に古い。
Posted by kanata at 2012年10月24日 23:06
重箱の隅で悪いけど
>結婚して幸せになるか不幸になるかは結婚する当事者次第であり、一般化出来る可能性はこれっぽっちもない。

>従って、「人それぞれ」以外の結論は出ない。
とは同意できないな
幸せが数値化できるかどうかは疑問があるけど、何かしら統計的に有意な差があると思うわ。有意な差がないならそれを示さずに「人それぞれ」なんていう極論を持ってくることは違うと思われ。

科学的な議論なんてどうでもいいやーという趣旨なら
>Webでは、基本「幸せ」よりも「不幸」の方が可視化されやすい。
とか「人それぞれ」という結論になるわな
Posted by at 2012年10月26日 09:24
たぶんですが、テキストはあくまでも補助具にしかなり得ない気がするんです 自分の家族という最初に入った社会が根底に有り、そこで良くも悪くも培った経験則が思い込みとなります それがいわゆる「温かい家庭」であったのか、或いは「冷たい家庭」なのか、そこにあったと信じ込んでいる事実は本当の事実か、或いは自分の思い込み(=身内の口癖の積み重ねである場合が多い)による偏った世界だったのか そういった決して短くはない時間を経て知るテキストに何を感じ取るのか、という問題なのではないでしょうか そして最大のポイントは、その人自身が将来を見て生きているのか、過去ばかりを追いかけてしまっているのか、どちらなのかという現在に起因するように思うのです 理由がなんであれ、八方塞がりで暗闇に一人だ、という事態から死ぬまで無縁である人に、その人の気持ちはわかりません 逆も然りです 私には飢えや寒さで苦しんだ経験がありません 渦中にいる人から見れば私は十二分なシアワセであるのです でも本当にそうでしょうか 今まで私の中に有った不幸は、そうして比較した時、薄れたり無くなったりするのでしょうか 不思議な事に、比較した結果シアワセを見つける事はほとんどありません これは、人の気持ちは相対的な比較ではなく、あくまでも自分だけのもの、という証だと最近思うようになりました 若干話が逸れてしまいました どんなテキストであれ、私は大抵そこに自分自身を見つけます それが私の嫌などす黒い面でも、それは確かに私の中にある要素であり、可能性だと思うからです ただ、私は出来ることならば悪くは言われたくありません それは私だけでなく、私の周りをも否定されたように私自身が感じ取ってしまうからです そういう意味でどんな種類のテキストであれ、全ては受け手の感受性によると私は思います
Posted by よし at 2012年11月03日 22:13
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幸福と不幸の狭間から、こんにちはとこんばんは。
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Tracked: 2012-10-25 17:24