大学に入学した年にケーナを始めました。かれこれ15年は前のことになります。
ケーナは、音を出せるようになるまでそれなりに練習しなくてはいけない楽器です。当初、私はなかなかケーナの音を出すことができず、毎日随分遅くまで残ってケーナと格闘していました。練習、というより、格闘、の方が正しい表現だったと思います。ふーふー吹きすぎて、酸欠になることもしばしばでした。
ある程度まともに演奏出来るようになったのも、同期のケーナ吹きの中では一番遅かったと思います。下手の横好きということなのか、同期のケーナ吹きの中で、今でもケーナ一本で演奏活動を続けているのは、私くらいのものになってしまいました。
楽器の練習をする過程には、色々な気付きがあるものだと思います。私がある程度ケーナが吹けるようになったのは、皮肉にも「吹いてはいけないんだ」ということに気付いてからでした。吹く、のではなく、口に溜めた息を少しずつ逃がす、ようにしないといい音は出ないのです。楽器経験が全くなかった私には、こんな程度の気付きも随分高いハードルでした。
私より数期上に、素晴らしい音を奏でるケーナ吹きの先輩がいました。仮に、名前をK先輩とします。
その人のケーナは、技術的に素晴らしいのは言うに及ばず、とにかく音色がものすごいのです。どこからどう聴いても、それこそ大学の入り口で遠くからかすかに聞こえてくる音を聴いても、百発百中「あ、K先輩のケーナだ」ということがわかるのです。どんな曲を吹いても、「あ、K先輩が吹いてる」ということがわかるのです。私は、K先輩のケーナに憧れました。
大学サークルの気安さで、K先輩と飲む機会は結構ありました。K先輩は気さくな人でもありました。そこで、私はある時、こんなことを聞いてみました。
どんな練習をすればそんな音が出せるようになるんですか、と。
K先輩はこう答えてくれました。
そんなの教えられないよ、と。
基礎的な技術を身に着ける練習なら教えてあげられないでもないけれど、しんざきがいる場所はもうそこじゃないんだから、誰かのケーナじゃなくて、しんざきのケーナが吹けるようにならないとダメだよ、と。
また、こうも答えてくれました。
どうすれば吹けるようになるかじゃなくて、何を吹きたいかを考えなよ、と。
私の質問は、端的にいって「愚問」だったと思います。K先輩のケーナは、「K先輩の音」「K先輩にしか出せない音」だと一瞬でわかるところが凄かったのに、私は「K先輩と同じような音が出せるようになりたい」と思ってそう聞いたのですから。K先輩も、酔っていなければ随分困ったのではないかと思います。
物わかりが悪い私は、K先輩にそう教えてもらっても、まだ表層的な理解しか出来ていなかった、と思います。何を吹きたいか、というのを、「どんな曲を吹きたいか」という意味だと捉えて、難しい曲を延々練習したりしました。それはそれで実になったのかも知れませんが。
それから10年くらい経ってようやく、K先輩が何を言いたかったのか、が分かりました。あるいは、K先輩が言ったことをこう理解しよう、と思うようになりました。
つまり、技術は単なる下敷きに過ぎず、本当に重要なのは「自分は、ケーナを使って何を表現したいのか」ということであって、それは人まねでは永遠に分からないもの、自分1人しか持っていないものなのだ、と。「自分の音」というのはそういう意味なのだ、と。
あるいは、「何を表現したいのか」が明確になっていて、しかもそれが人を感動させるようなものであれば、技術すら二の次なのかも知れません。もしかすると、それは別にケーナでなくても関係がない、楽器かどうかすら関係ない、普遍的な話なのかも知れません。あるいは、「技術的に上手い」というのは当然の前提なのであって、その先に行くには「何を聴かせたいのか」という、確固たる核が必要、ということなのかも知れません。
ケーナを吹き始めて15年経ちました。物わかりが悪い私のケーナは、15年吹き続けた今でも未熟ですが、それでも私は、「自分のケーナの音」が随分好きになりました。そして、「ケーナが上手くなりたい」ではなく、「こんな音を吹きたい」「こんな音を聴かせたい」と思うようになりました。「自分の音が好き」というのは、上記の話の更に前提となる、人に演奏を聴かせる際の最低条件である、と思います。
そういう意味では、私もようやく、「ケーナ吹き」の一端になれたのかも知れない、と思っています。
昨日ライブにおいで下さった方、ありがとうございました。こんな私のケーナですが、よければまたご一緒出来ればと思います。
2012年11月12日

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酸欠になり過ぎない程度にお楽しみください。