三木道三が一発屋としてからかわれている件
無知を晒すことは重要だと思うので堂々と晒してしまうが、私は三木道三というアーティストを知らない。ただ、私が知らないミュージシャンはそれこそ多士済済だと思うので、これは驚くには当たらない。単純に私が無知なだけである。
ただ、この記事で提起されている問題点についてはなるほどなと思ったし、面白いとも思ったので、ちょっとそれについての感想を書いてみたい。
関西クラブミュージックシーンで三木道三ほど音楽に貢献した人を誰一人悪く言わないのに対して、カウントダウンチャートを上からとりあえず聞いてる「自称」音楽通に限って一発屋の三木道三をバカにする両極端な土壌が出来てしまった。
ここから僕は「そもそも一発屋とは何か」というのがわからなくなってしまった。
そもそも、なぜ、みんなは一回でも「音楽的表現の流通」に成功した人を笑うの?
なにを笑ってるの?可笑しいのは「音楽」なの?「表現」なの?「流通」なの?
音楽を芸術から商品に貶めたのは他ならぬバイヤーなのは周知の事実だけれども、
そもそも音楽を商品として扱ってきたのは消費者なんじゃないの?
流行ったからつられて買って、あとになって「一発屋一発屋」とからかう創作活動のどこに未来はあるのか。まず思ったことなのだが、恐らくこの方は、大きく三点の問題点を感じておられるのではないか。
「一発屋一発屋」というけど一発でも当たった凄い人をお前達は尊敬しあがめよ、とは言わない。
中には自分も2発目、3発目と当てるように努力してる人も居るだろうし、そうでなくても一発当たった人はやっかみの対象になるのも理解の範疇だ。
だけど、三木道三ほど日本の音楽文化にレゲエという要素を取り入れて貢献した人に対しても、メジャーレーベルでしか評価できなくて、その評価が一律「一発屋一発屋」というからかいがほとんどな現状を見ると、良質な音楽との接触の機会を自ら狭めているのはこういった「カウントダウン上から下までそろえておけば大丈夫」な層なのかもしれない。
・メジャーシーンでは三木道三が正当に評価されていないこと
・「売れたかどうか」で評価が定まることが音楽業界に与えている悪影響
・(三木道三とは関係なく)「一発屋」という評価自体が不当であること
これらはそれぞれ別々の問題なので、別々に考えた方がいいのではないかと感じる。この記事では、三点目、「一発屋」という評価が行われることについて考察してみたい。
「一発屋」という評価が行われる際には、恐らく次のような段階を経る筈だ。
1.あるアーティストが、活動を続ける内に非常に優れた創作を行う。
2.その創作が、偶然セールス的に成功する。
3.セールス的な成功によって、今までそのアーティストを知らなかった人にも認知される。この時そのアーティストは、その作品と結びついた形で認知される。
4.その後もアーティストは活動を続けるが、最初の創作程にはセールス的に成功しない。
5.3でそのアーティストを認知した人が、それ以降3程はセールス的に成功しないのを見て、「一発屋」と揶揄するに至る。
問題点は多分二つある。
・「セールス的な成功」が、必ずしもアーティストの実力に100%は依存せず、運やその他の様々な要因が絡むこと。
・「セールス的な成功」で初めてアーティストを認知した人は、以降そのセールス的な成功をそのアーティストの評価基準にしてしまう、つまり「ハードルを上げてしまう」ということ。また、当初から「セールス的な成功」を評価軸の一つとして持っている可能性が高いこと。
これは音楽業界に限らない話だ。小説でも、漫画でも、美術でも、同じようなことはどこででも起こっていると思う。
まず、元エントリーで言われている通り、「一度もセールス的に成功したことがない人も非常に数多くいるのに、一度でも成功したというのは凄いことである」というのは完全に正しい。セールス的な成功に必要なのは実力だけではないとはいえ、そもそも実力が足りなければ成功は出来ない。「チャンスを掴んで売れる」というのは、「チャンスを掴めるだけの実力がある」という、凄いことなのだ。
しかし、「売れるかどうか」というのは、無論実力だけで決まるものではない。マーケティング、タイミング、その他アーティストの動向、そして勿論運。余程「知名度」という下駄が高いアーティストでない限り、「ある作品が売れるかどうか」というのはかなりの部分実力以外のところで決定する。どんな業界でもそうだと思う。
なので、あるアーティストを評価する際、「セールス的に成功しているかどうか」という評価軸は、必ずしもその実力と相当しない(勿論相関がないわけではないが)。当たり前のことだ。
そして、「セールス的な成功」によって初めてそのアーティストを認識する人というのは、そもそも「セールスの動向」を観測しやすい立ち位置にいる人である筈だ。たとえばオリコン、例えばチャート、例えばラジオでのリクエスト、例えば発行部数やアンケート順位。こういったシーンにおいて、売れていない人はそもそも観測範囲に入らない。
つまり、元々評価軸として「セールス的に成功しているかどうか」というものを持っている人、あるいは「売れている人しか観測していない→ハードルが高い」人である可能性が高い訳だ。(これらの人は勿論個別に好きなアーティストがいる筈で、そちらについては別の評価をしているかも知れないが、それは取りあえず置く)
ここに断絶が生じる。売れる前からそのアーティストを観測し続けていた人は、当然そのアーティストの「実力」を評価している筈だし、売れるかどうかに関係なくその創作物を評価している筈だ。一方、売れてからそのアーティストが観測範囲に入った人は、「売れるかどうか」という評価軸を先に持っている。つまりそのアーティストに対する評価軸が全然違う。
「一発屋」という言葉は、意識的にせよ無意識的にせよ、「セールス面で成功しているかどうか」を評価基準にしている人しか発しない筈だ。
違う評価軸で低い評価をされれば、元々好きだった人が憤るのは仕方がないことだ。よくある、「売れる前からのファン」と「売れてからのファン」がぶつかる現象には、こういう側面もあるんじゃないだろうか。
私個人の考えとしては。
「セールス的に成功したかどうか」で評価することに対する是非に関しては、あまり私に意見はない。そういう評価軸もあっていいんじゃないの、とは思う。売れるかどうか、というのはやはり重要なことだ。
ただ、「一度でも売れたことのある人はそれだけで凄い」というのはその通りだと思うし、そういう意味で「一発屋」という揶揄は不当ではあるなあ、と思った。
今日考えたこと、以上。
さらにクロマルの超主観的な意見ですが、総ての芸術は情熱と深慮と創造力と想像力、才能の自覚と興味、その他色々の条件が整って初めて傑作が生まれます。
しんざき氏も音楽に携わっているのなら一度は作曲の野望を抱いたことはありませんか?どういう雰囲気の曲にするか、楽器は何と何を合わせていくのか、どこでどういう変化を付けるか、ホールで演奏したらどう響くのか、この場面での高い(低い)音は不快にならないか、演奏者が心地よく演奏できるか、挙げればキリが無いですね。
こういう真剣さが今の三木道山にはないのだと思います。
さらに、音楽(作曲)を長期にわたって考えていると売れやすい曲は大体頭に浮かぶはずです。浮かばないのではなく、浮かべる情熱が不足しているのでしょう。
堂本、でしたっけ?彼等の歌は作曲者が怠けすぎです。全ての曲が同じ曲に聴こえます。一人が作曲できる曲のパターンは凡人で4〜5曲、さらにメインとなるメロディーはほぼ使い回しになります。
歌っているアーティストに罪はありません。全ては無能な作曲者が悪いのです。マーケティングも運も実力も必要ですが、一番の責任を背負うのは作曲者であるべきです。
当てること自体がすごいと言うのは確かにそうですけど、お客から観ればプロが自分よりすごいのは当たり前であって、それ以上を求めるとこにプロの意味があると思う。
その当たり前を原点にして観れば、一発屋はやっぱり一発屋という評価をされても仕方ない場合はある。どういう場合かというと、もう一発当てたいけど、当てられない人。その結果、プロ活動を続けられない人。そういうのはやっぱり一発屋と言えるんじゃないかと思う。
他方で、一発当てたことを切っ掛けに音楽に専念出来、敢えてインディーズで食って行く人。こういう人達は、初期の活動資源としてしかメジャーシーンを観ていないと思うので、そこの評価などもはや気にしないでしょう。
三木さんもこれに当てはまると思うので、この人達を対象にメジャーの評価がどうとか外野が言うのは、本人さんにとってはどちらも余計なお世話なのかも知れませんね。
同じ曲に聴こえようが、売れてる人は売れてるんだし、どんなに努力しても売れないこともある。
有名で才能のある音楽家の作品でさえ、死後になってからでないと評価されないものもある。
これは、音楽に限らず、小説、絵なんかも一緒でしょう。
それをもって、真剣さが云々てのは言い過ぎでしょう。
自分は
自分は三木道山はよく知りませんが、その筋の人がその功績を讃えようとしている、ということはどう思われますでしょう?
どれだけ功績があっても、メジャーで売上がなければ、一発屋と呼ばれる、というのが問題であって、アイドルの楽曲の作曲者についての論評はこの際どうでもいいと思うのですが。
とりあえず、傑作=売れる曲ではないのだし、それは既にマーケティングの話であって、残念ながら芸術の話ではないと考えます。
まぁ、簡単に「一発屋」と呼ぶタイプの人間が、ヒットチャートのみを追いかけるタイプであり、そういう人を音楽通と呼ぶのはちといやですね。
どのように考えたら堂本さんが引き合いに出されるかが分からない
あと、個人的に以前しんざきさんに深く共感したテーマで
『何かを批判するのなら、その「何か」について出来うる限り知っておくべきだ』ってものがあったが、
批判するなら最低限批判対象の名前ぐらいはしっかり明記しましょうよ
物事を成すときには人に合った役割を配分し、その総力をもってあたる必要があるとクロマルは考える訳です。
政治なら表舞台に立つ首相、陰から支える策略家、というように。これは歌うアーティスト、創る作曲者の関係に似ています。より有能な裏方の手腕によって表舞台に立つ者が輝ける、これは当然のことだと思っています。
三木道山にも良い作曲者は付いていることでしょう。しかし既存のファンを裏切らない、それでいて売れる新しい曲を作るのは少人数ではとても難しい。これは売れる曲を出せない理由の一つと「推測」します。
そして作曲者を少人数で抑えたと思われるのが堂本さんの歌う曲、正確には『堂本さんが歌うものを担当している作曲者の作った曲』ですね。展開の幅が狭く、音の配置と和音のパターン数が少ない。
一方で良い点もあります。パターンが煮詰まっている事による完成度の高さ、歌う側の歌いやすさへの配慮、堂本さんの声質の活かし方など。
後になってしまいましたがクロマルは堂本さん否定派ではなく堂本さんの作曲陣いい加減本気出してください派ですので勘違いなさらぬようにお願いします。
さらにクロマルは堂本さんが現在売れている理由は音楽面以外の、人間性や努力面、テレビでのキャラクター浸透などが主だと思います。それほどまでに堂本さんが近年歌われている歌は声以外は質が悪いです。
もし堂本さんがラジオやテレビに出る努力もせずバラエティでキャラクターを拡散することもなかったなら、一発屋とは言わないものの5〜6曲で関東から消えていたかもしれません。
要約
@堂本さんは音楽面以外の努力も惜しまなかったので業界的長寿。三木道山は音楽一本で勝負したから音楽でつまづいたら終わり。
A売れてないのは作曲者が少ないか本気を出してないだけ。
Bクロマル的には三木道山の方が音楽面で優れていると思う。声、曲ともに。それでも関東での寿命が短かったのは音楽面以外の努力が足りなかった(実らなかった)から、とも考えられるのではないだろうか。
C二人とも関西出身だよね?
と、大変な長文失礼しました。
>>しんざき氏
アク禁だけはー!アク禁だけはご勘弁をー!