こんなまとめを読んだ。
Favstarの無課金者に対する対応について
どうも、「favstarにあった「総ふぁぼられ数を表示する機能」について、無課金ユーザーに対する機能が制限されたことについて文句を言っている人がいる、ということのようだ。第一感では「いやなんで無課金ユーザーがそこまで上から目線なんですか?」と思ったし、もしかするとそれで十分な話なのかも知れないが、もうちょっと考えてみたくなった。
これを書いた時点では、コメント欄の話が「favというものの価値をどう考えるか」→「favに重い価値を持つ人のために、当該サービスは無償で提供され続けるべきだった、ないしそういったユーザーの声を聞くべきだった」という話になっているように見えるが、私はこの流れにはコミットしない。というか、余り意味のない話だと思う。
favの価値については「人それぞれ」「Twitterには色んな利用法がある」で終わる問題である(参照:ふぁぼ・ふぁぼられについて、3つくらいのテーマで考えてみる。)し、「favに価値がある人の為に無料サービスを継続するべきだった」という話には、重大な前提が欠けていると思うからだ。
これは、「サービスとは商品である」「商品には対価が払われるのが当然であり、無償で提供される状態の方が特殊である」「対価を支払っていないユーザーは、少なくとも「お客様」ではなく、「お客様」としての権利は主張出来ない」という前提を持っているかどうかという、意識の断絶の問題だ。
いくつか論点があると思う。整理しきれていないので若干雑然としてしまうかも知れないが、ご容赦いただければ幸いである。
1.サービスは商品か。あるいは、無償で提供されるべきものか。
2.無課金ユーザーは、Webサービスに対してなんらかの「対価」を支払っているのか。
3.無償で提供されていた機能は、無償で提供され続けなければならないのか。
4.仮に、「無償で提供されていたサービスを有償化されること」が嫌悪されるとしたら、そこにはどんな原因があるのか。
まず一つ目。サービスは商品であり、本来は無償で提供されるものではない。完全に無償で提供されるサービスは、かなり特殊なものだと考えるべきだ。これは最初に押さえておくべき、当然の前提の一つだと思う。
サービスは本来無形財のことである。これを「無料」という言葉と結びつけてしまったのは、日本特有の事情によるものだ。(参照:Wikipedia:サービス)これに、ずっと後から「Webサービス」という言葉が出現して、当初のインターネットの諸々の事情から、「無償で提供されて当然のもの」という意識が一部に根付いてしまったことが、色んな話をややこしくしてしまった、と思う。
本来、商品は対価を支払って手に入れるものであり、対価に応じたものしか求めるべきではない。この前提をもっている人ともっていない人の間には、物凄い深さの断絶があると思う。これが断絶その一だ。
「対価に応じたものしか求めるべきではない」という前提をもっていない人は、極端な例で言えば「お客様は神様」という言葉を振りかざして店員にサービスを要求したり、その一方で実は商品を買ってはいなかったりする。日本が商業社会である限り、本来これは義務教育で教えるべきなんじゃないかと思う程重要な認識だと思う。
とはいえ、Webにおけるサービスには、ある程度、またはかなりの部分「無償」で使えるようになっているものが多くある。これには勿論色んな事情があって、中には広告モデルやアドセンスで収益を上げているものもあれば、基本無料機能に対して有料部分を作ることで収益をあげているものもある。継続的な利用に対して料金をとる、シェアウェアソフトなんてものも昔は色々あった。
これによって、「無課金で使えるのは当然」「無課金ユーザーも大切なお客様」という意識を、当の無課金ユーザーの方が強く持つようになった、という側面はあるような気がする。こういった意識は、サービス提供側がもつのは重要なことかも知れないが、ユーザー側が振りかざすべき論理ではない。これが先鋭化するとマジコン問題になると思うのだが、一旦それはおこう。
次は、この点について考えてみたい。
2.無課金ユーザーは、Webサービスに対してなんらかの「対価」を支払っているのか。
大抵の場合払っていない。
結論から入ってしまったが。一般的なWebサービスにおいて、「見てあげる」「使ってあげる」というのは対価にはならない。個人ブログであればまだ「書き手の承認欲求を満たす」という対価が存在するかも知れないが、少なくとも企業や団体が提供している普通のWebサービスにおいて、それは単純に負荷をあげているだけの話だ。
だというのに、「僕はお客様」という意識を強くもっている無課金ユーザーが多いところに、断絶その二があるような気がする。
大抵の場合、という留保をつけたのは、例えば無課金ユーザーに広く試用してもらうことで品質を向上させるような例もあるし、広告モデルやアドセンスモデルのような、ユーザーが増えることそれ自体が利益に結びつくモデルは確かに存在するからだ。ただ、収益を広告モデルだけに頼って十分ペイするのはよほどのお化けサービスだけであるし、課金/無課金のサービスを用意しているようなモデルにおいては、少なくとも無課金ユーザーが課金ユーザー程には収益に寄与しないのは当然の事実だろう。
「対価に応じたものしか求めるべきではない」という前提を有する限り、無課金ユーザーは「使わせてもらっている」という意識を忘れてはいけないのだ。これも、本来はくだくだ言うまでもない、当然の前提であるような気がする。(勿論、課金していれば何をしても構わない、という意味ではない)
Webサービスの維持にはコストがかかるし、好きなサービスであればある程、本来は対価を支払って然るべきであるとは思うが、まあこれはここでは置いておこう。三つ目の論点に移る。
3.無償で提供されていた機能は、無償で提供され続けなければならないのか。
これも、議論の余地はあるかも知れないが、私の感覚では「いや、そんなことないんじゃないの?」と思う。
企業ないし提供者は、無償で提供していたものを有償にするに当たって、「ユーザーの減少」というリスクをちゃんととっている。リスクをとってリターンを得ようとするのは、商行為においては実に一般的な行為だ。少なくとも、Webサービスを商品だと考えるなら、「高いと思ったら使わなければよい」の一言で話は済む。
とはいえ、検討の余地はある。
例えば独占禁止法が存在するように、あるいは塩の専売が倫理上許されないように、「それなしでは生活出来ない独占的な商品」の価格を吊り上げることは、倫理上非難される行為だ。これは、「適正な範囲での商行為」という言葉に括られる(別に法律用語ではない)。同様、例えば既にあるべきインフラとして定着したサービスを、いきなり全面的に有償化すれば、それは「適正な範囲」から逸脱するものだと批判されるだろう。
今回のケースで言うと、favstarの当該機能が、例えば塩の専売のように「なくてはならない」ものであり、それの価格を吊り上げることが「倫理的に許されない行為」なのかどうか、一応検討してみること自体は悪いことではないだろう。個人的には無理筋だと感じるが。
なお、時折Webサービスを、公園や道路のように「公共のサービス」と同一視して、それが有償化されることに対して嫌悪する向きも存在するが、公共のサービスも本来無償じゃないんですよ、という指摘は当然なされるべきだろうとは思う。
4.仮に、「無償で提供されていたサービスを有償化されること」が嫌悪されるとしたら、そこにはどんな原因があるのか。
別に今回のケースに限らないのだが、「マネタイズに対する嫌悪」というものは、Webにおいて非常によく見かける、ような気がする。今までフリーで提供されていたものが、例えば有償化される、あるいは企業が絡んでペイさせようとする、といったことに対して、本来のそのサービスに余り関係ない人まで風当たりを強くする、という光景はよく見る。
これは、ただ「お金を払うのがイヤだ」というだけでは片付けられない問題ではないかと思う。
・Webサービスを「本来無償であり、無償が正しいものである」と考える、サービス無償原理派
・マネタイズ自体を「金儲け」と捉え、かつ「金儲け」を悪いものであると考える経済活動批判派
・無償の奉仕を「あるべきもの」「美しいもの」と捉える道徳派
・個人ブログと同様の感覚で、無課金閲覧自体が「対価を払っている」「私はお客様」と考える無課金ユーザー過激派
・上記様々な要素の複合
放言としては、「金儲けを悪とする道徳教育」の悪影響がどっかにあるんじゃないかなあ、と思ったりもする。きちんとした社会実験を追っかけたわけではないのでなんともいえないが、「マネタイズは決して悪いことではない」ということについては一度明確にした方がいいんじゃないかと思う。
一つ一つをとれば議論の余地があるものはある、が。私のスタンスとしては、基本的に「本来、商品は対価を支払って手に入れるものであり、対価に応じたものしか求めるべきではない。」という前提が先に立つと思うし、スタートラインがそこであればあとの思考回路は自ずから変わってくると思う。断絶を埋める手段が果たしてあるのかどうか、考えるところである。
それ程結論らしい結論でもないが、今日はこの辺で。
2012年12月10日
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有償で得られる物を無償でよこせってのは物乞いの理屈なんだけど、それを恥ずかしいと思わない
多少引け目がある人は、企業や親や社会を貶める事で、自分が物乞いである事は仕方ないと屁理屈をこねる
時には、物乞いに情けをかけないとはなんたる心掛けか!と開き直る事だってある
何十億人居る閉鎖されたネットの中でそれらを言えるって事は、恥ずかしいと思う気持ちが無くなってなければ出来ないと思う
だからこそ何故無料で楽しめているのかのからくりと(テレビだったらスポンサーが代わりにお金を払っている)、そのリスク(視聴者よりもスポンサーの意見の方がプライオリティが高い)をどこかでフォローする事が必要なんでしょうけど。
失礼しました。割と本気で月額105yenまでならマインスイーパやります。
今回の件ですが課金ユーザーと無課金ユーザーがいるのなら区別はあって当然だと思います。仮に課金ユーザーが『無課金ユーザーに○○のサービスが提供されていることが納得できない!』と発信したら経営者側にとっては「お金を払ってもらっている方のお客様」ですからね。天秤に掛けたら無課金ユーザー数百人〜数千人分くらい(根拠なし、予想)の発言権が有るかもしれないし、有ってもいいと思います。
@サービスは商品か
商品として評価(課金・購入)してくれる人には商品として、商品と評価してくれない人にはサービスとして提供するのではないのでしょうか。
逆の立場で考えれば話はもっと早くなります。人は生きるために衣食住や趣味といったコストがかかります。お金をくれる職場での労働とボランティア活動、どちらに積極的になりますか?そういうことです。
そもそも利用規約を読んで納得しているなら問題にはならないんですけどね。
A無課金ユーザーは「対価」を支払っているか
今後課金ユーザーに変わる可能性、でしょうか。今回の件も経営者側の販促行為に思えます。モノを売る会社が販促行為をして何が悪いのか理解しかねます。
B無償サービスは無償のまま?
これはわかりません。判断のしようが無い。しかし、有償に変わる可能性やサービスの変更を利用規約で示唆しているのであれば『規約を承諾されない方はお帰りください』の一言で済んでしまいますね。
Cサービス変更に嫌悪する理由
現代人の性質そのもの、でしょうか。電気を使えるのが当然、ガスを使えるのが当然、電車を使えるのが当然、車に乗れるのが当然、学校に行けるのが当然、など。生活のリズムに溶け込んでしまったものが変質するのは有償無償に関係なく嫌なものですよ。
ぶとうかLV99がかいしんのいちげきを全く出さなくなったり、Aボタンが効かなくなったせいでラーミアが地上に降りられなくなったり、うお座にしなかったからくにおがマッハパンチ持ってなかったり。いや、最後のは違いますね。すみません。とにかくそういうことです
それはそうと本題ですが、広告や課金そのものに対する嫌悪と「有償化」への嫌悪は似て非なるものに思います。
前者は筆者さんご指摘の通り「誰かが金を払ってる」という視点の欠如によるもの。
利用者側の「わがまま」と「無理解」に基づくもので、
「金のためか」「スポンサーのためか」といったある種の「性悪説」をベースにしていると思います。
後者については、前者の要素もありつつ、3つのポイントがあるかと。
1.間違った性善説
尖ったサービスのプロバイダーは、それを「世に送り出すこと」に
純粋な喜びを見出しているという思い込みが多少ともあると思います。
だからこそ、それが裏切られた時の反動が過剰になるのでは。
2.作者と事業者の距離の近さ
例えば文庫本なんて、物凄い値上がり率で価格が上がっていると思いますが、
多少不満が漏れる程度で炎上しないのは出版社と作者が分けて考えられていて、
「出版社ふざけるな」とは思っても「作者ふざけるな」とは思わないからでは無いか、と。
これがウェブだと「おまえらふざけるな」となってしまい、全面対決のマインドセットになる様に見えます。
(公共料金の値上げに対する拒否反応もこの文脈で語れそうです)
3.「0→1」の値上げ(有償化)への不慣れ
単純に、完全無料だったものが有料になるという流れが
オフラインの経済ではあまり一般的では無い(と、思う)ので
消費者側に戸惑いがあるという要素も大きいかと。
…うん、書いてるうちに的外れな気がしてきた。
そういうのが無駄になるところから、嫌悪感が来てるんじゃないかな。
つまり、有料化するのがわかってたら最初から利用しなかったのに、と。
最近の子は話し方や態度がなってないとかそういうレベルの問題なんじゃないかな?
つまり、これはモラルの話であって、そういうのは何もWEBに限らないと思う。
ただ、WEBが出るまでの無形財は空間や場所、パッケージなんかでちゃんと制限がかけられたけど
WEB上の無形財は本当の意味で形が無いままでビジネスが完結しちゃうから、
良くも悪くも既存のシステムやモラルは対応出来ずに変化、淘汰されていくでしょう。
例えば、違法コピーをいつまでも違法だと思っている様な呑気な人が多い会社や国は
次の時代では経済的に取り残されますね。
コンシューマ側に、Webサービスにお金を払うという発想が育たない一因は、あるサービスが有料化の方針を打ち出しても、別に代替となるサービスが無料で提供されていて、そっちに民族大移動がごとく移ってしまえばそれで済む、という状況があるからではないかと思っています。
サービスを移るのはそれなりに面倒ですが、「たま」にする程度なら人生におけるいいアクセントというか、一種のクエストとして楽しみながら移動できるのでは。「課金を回避する方法をいろいろ探索するのは楽しいから」説を推します。
同じスタートラインを提供するためには、様々なサービスを提供することで達成されます。それは、対価などの支払いの有無に関わらず提供することが前提になります。
対価などの支払いの有無(支払い能力)によって受けられるサービスが変われば、思考のスタートラインも自ずと多様化します。
たとえば、塾に通える子供や家庭教師のいる子供はそうでない子供とは別のスタートラインに立つでしょう。
>たとえば、塾に通える子供や家庭教師のいる子供はそうでない子供とは別のスタートラインに立つでしょう。
それは考え方次第ですがクロマル的には「学校に通う」がスタートラインであり、その学業に対して塾なり家庭教師なりの対応策をとり、結果として特別な努力やサービスを受けた生徒にとって学業のハードルが下がるだけです。
スタートラインが変わるという考え方は特別な努力をする個人を責め、周りとの同調を求める考え方に繋がると思います。勉強を頑張れば点数が上がるし、運動を頑張れば走るスピードが上がったり身体能力が高くなる。一概にそうは言えなくとも努力する者は報われると思うし報われてほしいとも思います。
しんざき氏の「商品と対価の関係」の考え方にはクロマル的におかしい部分があります。
>対価に応じたものしか求めるべきではない
この『対価に応じたもの』とは誰が決めるのでしょうか。質が同じなら安い方を、価格が同じなら質の良い方を選ぶ(選びたい)のが客というもの。
商品の対価は価格ですが対価に応じたものは企業努力です。更なる企業努力を求めるのは悪いことではありません。
悪いのは一部の非常に頭の悪い人種が無課金ユーザーの権利を主張することくらいです