昔々のことだ。確かまだ学生の頃だったので、少なくとも10年以上昔の話である。
昔過ぎて経緯が曖昧なのだが、私があるステージに立ってケーナを吹く時、同じケーナ吹きの先輩が観に来てくれたことがあった。ステージの開始前に、ちらっと先輩と会話した。
細かい内容は忘れたが、謙遜のつもりで、ちょっとへりくだった言葉でも言ってしまったのだろう、多分。
先輩は同意するでも怒るでも笑うでもなく、単に一言、こういった。
「コックが「美味しくないですけど」といいながら出した料理を食いたい客がいるか?」
この言葉だけ、物凄く印象に残っている。今でも、この時の一言一句を鮮明に思い出せる。
後になってから理解出来るタイプの言葉だったと思う。この時は、先輩の言葉は他の会話の中に流れ去って、私は普通にステージに立ち、いつも通り演奏を終えた。
後から、私は、先輩の言葉をこんな風に理解するようになった。
時間なり、お金なり、どんなに僅かでも貴重なリソースを使って私の演奏を聴きに来てくれているのだから、この時先輩は「お客」であり、私は「コック」なのだ。仮に技術が稚拙だろうが演奏がいい加減だろうが、この立場は決して変わらないし、誤魔化せない。
そして、コックは料理を出してお客さんをもてなし、楽しませなくてはいけない。お客さんをもてなす時、わざわざ自分の料理に対して卑屈なレッテルを貼ろうとするコックなどいないし、いてはいけない。
これは多分、ある程度普遍的な話なんだと思う。
何かを他人に評価され得る場所にさらす時、我々はついついハードルを下げたくなる。あんまり期待しないでくださいね、とハードルを下げて、相対的な「期待してなかったけどまあまあじゃないか」という評価を確保したくなる。これは、ある程度仕方ないことなのかも知れないし、悪いことでもないのかも知れない。
しかし、少なくともそれが「客」と「店主」の立場であった場合。お客さんが何がしかのリソースを払って私の表現を観に来てくれている時、私は決して「美味しくないですけど」などと言ってはいけない。それは、お客さんが払ってくれた貴重なリソースに対する侮辱だ。
謙遜が美徳である場面は、勿論ある。しかし、卑屈は美徳ではないし、ハードルを下げようとするのは美徳ではない。多分、謙遜と卑屈の間のどこかに仕切りがあるのだと思う。
謙遜と卑屈の仕切りがどこにあるのか、ということは、物わかりの悪い私には正直良くわからない。
だから私は、「美味しいですよ」と言って料理を出すことにした。結果として美味しくなかったりお口に合わなかったら大変申し訳ないが、少なくともスタンスとしては「美味しいですよ」という態度を決して崩さないよう全力を尽くすことにした。
ケーナを吹く時、私は今でもそうしている。
2013年01月09日
この記事へのトラックバック
こう訊かれたら、わたしは「いる」と即答する。実際いたもの。
ま、およそコックたるものが美味しくない料理を出すことなどありえないという大前提がある世界でのみ有効な枠組みですな。
確かに難しいですね、少し考えてみました。
相手が評価してくれた時にへりくだる → 謙遜
相手が評価待ちの状態なのにへりくだる → 卑屈
とかかなー。
人はしばしば好き・嫌いと良い・悪いを混同する。前者と後者は似てはいるが全くの別物である。(コレ前にも書きましたね。重複してすみません)
コックが「美味しくないですけど」と言ったその意味を知るには「美味しくない」とされる料理を食べなければわからない。
事象を篩(ふるい)にかける、という考え方もできます。自分では駄作であるとか良くないと思う意見を発信したときに別の視点や解釈を持つ人が良い点・悪い点を指摘することで自分では気づけなかった自分の長所にも気づくことができ、今後の課題も見えて来ます。
考えに考えを重ねれば状況は必ず好転すると考えるクロマルはコックが「美味しくない」と言うのなら具体的にどう「美味しくない」のかを聞きますね。何が足りないのか、何が多いのか、そういった問題を解決する意志が有るかどうかが重要であり、評価のハードルを下げる行為はしたい人はすればいいくらいにしか思いません
まず物の例えなのに、実際そう言われたと
マジレスするのもアレだけどそれ以上に、
>こう訊かれたら、わたしは「いる」と即答する。
ここは先輩から訊かれた視点なのに、
>実際いたもの
と、いきなり言われた側(しんざきさん)の
視点で書いているということのおかしさに
気がついて欲しい。
もしクロマルが問題視するとしたら別のことですね。
コックが「美味しくないですけど」と言った料理に対する関心や興味、食すのに掛かった対価や労力、食した後の感想や評価にどれほどの影響を与えるのか。
そういう行為は一般的にどうなのか?という問いかけだと思うのですが、それに対して「事実」で答えてしまっています。
考え方を問われた際に事実や正論で答える行為はクロマルにとっては相手(問う側)への侮辱だと思っています。事実や正論をベースに自分の考えを発信するならまだしも、事実や正論をそのまま発信することは問う側を小馬鹿にしています。
クロマルは事実・正論に勝る思考は無いと思っています。思考の積み重ねが「事実」というジョーカーを出されることで終わってしまうのです。
今回の場合はしんざき氏の物の喩えを文章通りに受け取ってしまったのが原因でしょう