読書感想文なんかより要約やらせたほうがよほど国語力伸びる気がする。書いてあることを書いてあるとおりに読めない人がちゃんと書けると考えるのなかなか難しい。要約が大事というのは全くおっしゃる通りであるし、書く前にまず読解から、という点にも異論はない。「今の学校教育における読書感想文」を対象にすれば、@daichiさんの言うことは実に正しいと思う。
ただ、私は本来「読書感想文には読書感想文にしか出来ないことがある」筈だし、もっと教育としてやりようがあるだろう、要約は要約で勿論必要だけど、「読書感想文なんか」と言わせてしまうのはいくらなんでも勿体ないだろう、という意見をもっている。
ちょっとこのエントリーではそれについて書いてみたい。
昔話から始める。
小学校の頃、それなりに気合の入った読書感想文を書いたことがある。確か、クラスの課題図書は、ケストナーの「エーミールと探偵たち」だったと思う。
私は昔から色々な考えをこねくり回すことが好きで、この際も色々と工夫することを考えた。
例えば、ただ「エーミールと探偵たち」で済ませるのもつまらないと思い、同じケストナーの「飛ぶ教室」を読んだ。そして、そこで描かれている子供たちの姿が、エーミールと探偵たちで描かれている子供たちの姿と様々に重なることに気づいた。二冊の本が書かれた時期を調べて、ケストナーがどんな意図で子供たちの姿を描いたのかを考えた。そして、ケストナーの少年時代というものについてあれこれ想像して、自分の今と重ねて、ついでに「私が子供だった頃」も読んだ。そういった過程と思考について色々書いた。
まあ、自分で面白いだろうと思った工夫を、「読書感想文」という器に詰め込んでみた訳だ。駄目なら駄目で先生が何か指摘してくれるだろう、とも思った。
評価はというと、「文章に間違いもなく、大変よく書けています」だった。
私はこの時、「先生が「よく書けています」しか書かないなら、じゃあ感想文も「よく書けていました」でいいじゃねえか」と思った。強い不公平感を感じたのは事実だし、この不公平感は正直今も、例えば「読書感想文のコピペ問題」のような話に触れる際にぶり返す。評価する側が手抜きなのに生徒には手を抜かないことを要求するのか、と。いや、単なる私怨であるし、ちゃんと評価している先生もいらっしゃるのだろうが。
勿論、私が書いた読書感想文は単なる一人よがりだったろうし、論旨も展開も収束も稚拙であったろう。ただ、それにしても、自分が読み方にも書き方にもなにがしかの「工夫」をしたことは確かであるつもりだし、それに対してもうちょっと何か反応があってもいいんじゃないか、と思ったことも確かである。
一番がっかりしたのはこの年だが、他の年度でも、感想文への評価は大同小異だったと思う。私の「読書感想文へのスタンス」の、原体験にこのときのことがある。
この体験は、勿論私一人のものであり、無条件で一般化できるものではない、ということは承知している。最近の小学校について私が知っていることは、スクールカウンセラーであった奥様からの聞きかじりと、ネットのあちこちでなんとなく見かけている情報だけだ。だから、読書感想文の教育が、多くの小学校で、当時より劇的に改善している可能性も一応ある、と思う。
以下では、主に私が受けた「読書感想文の教育」を対象に、文句を書き連ねてみたい。
読書感想文は、「何かを読んで、それについて自分が考えたことを書く」という行為だ。インプットをして、消化した上で、自分の言葉を文章でアウトプットする。これはもの凄く重要な行為だし、もの凄く楽しいことでもある。
本来であれば、読書感想文は、このもの凄く重要でもの凄く楽しい行為への人生最初のアクセスになり得る筈なのだ。自分の考えを文章にする、という行為の原体験になり得る筈なのだ。この点で、読書感想文には、冒頭で出た「長文の要約」に明らかに勝る要素がある。
私が考える読書感想文教育の問題点は、大きく二点である。
・読書感想文について、きちんと意義を理解して指導出来る先生が(多分)少ない。
・読書感想文自体をきちんと評価出来る先生が(多分)少ない。
一つ目。これは奥様の体験でもあり、私の体験でもあるのだが、そもそも先生から「読書感想文の意義」「読書感想文の書き方」に関する指導を受けなかった。課題図書が提示されて、「これを読んで思ったことを書いてきなさい」という、それだけ。いくらなんでも、初めての体験に対しての指導がこれでは、インストラクターの手抜きにも程があるというものだろう。
「インプットをして、消化した上で、自分の言葉を文章でアウトプットする」ということの意義、楽しさが分かっていれば、この三つのパート、それぞれに則った指導がなされて然るべきだろうと思う。
まず、読む。そして、作品の意図、話の本筋というものはどこにあるのか、いってみれば「その作品のコア」はどこにあるのかを考え、捕まえる。自分は、その作品のコアがどこにあると評価するのか、を考える。そして、その上で「話のコア」にどう切り込むのか、切り込んだ跡をどう文章に落とすか、ということを考える。
小学生には難しいこと、だろうか?私は、全くそんなことはないと思う。かつて私は、塾で、家庭教師で、私自身も気づいていなかった「話の中核」に突っ込みを入れる小学生を幾人も眼前で見たし、5歳の私の息子ですら、私が思いもよらなかった視点で絵本を穿つことがある。彼ら全員が特殊な天才だということなら話は別だが、多くの子供は、大人が考える以上に「読解力」というものを備えている。ただ、それを整理して用いて、整理して文章に落とし込む方法を知らないだけだ。
二つ目。これは以前も書いたことだが、「子供が書いたこと、子供が書きたかったこと、子供の試み」というものを正当に読み取って、それについて正当に評価出来る先生、というものが、勿論いない訳はないにせよ、どちらかというと少ないように思える、ということだ。
手前味噌だが、以前書いたことを引用しておく。
当たり前だけれど、「書く」ことと同程度、あるいはそれ以上に、「書かれたものを評価する」ことは難しい。「文章について妥当な評価をする」スキルを身につけることは、「整然とした文章を書く」スキルを身につけることより、多分遥かに難しい。
「文章的には正しい」というハードルを越えると、どうもその次がないのだ。「感想文」なのだから言っている内容や発想に正しい/間違いがないのは当たり前のことであって、では表現の技術レベルはどうなのか、どう書けば表現のレベルが上がるのか、となるとなかなかそっちの話にいかない。これは上で書いた私怨に立脚した印象なので、もしかすると見当はずれかも知れない。
最近の小学校の先生は、そういった指導をされているのだろうか?それは私には分からない。私が知っているのは、私が小学生だった頃、私の学年の先生には、そういった指導をする先生が一人もいなかった、ということだけだ。
もし仮に、先生がきちんと読書感想文の意義を認識し、読書感想文の書き方を指導し、書かれてきた読書感想文について評価したら。「インプットして、自分の考えをアウトプットする」という楽しさに目覚める子供は、その指導が行われていなかった時より、遥かに多くなるんじゃないだろうか。
勿論、小学校の先生は総合科目の先生であり、各教科の専門の先生ではない。仕事も山ほど抱えられており、何十人もいる生徒の面倒を見るために身を削っておられることはよく分かる。
ただ、それでも、「読書感想文」というものが、「読書感想文なんか」という言葉がぴったり当てはまる程度のものに落ち着いており、コピペがどーとかレベルが低い議論の対象になっている状況が継続しているとすれば、いまいちもったいないなあ、と思うわけなのである。
今日思ったこと、以上。
「良く書けていました」というのは評価として揺るぎない事実です。それに対し「良く書けています」というのは『現段階で』『個人的には』という意味を含むものだと考えます。
つまり、先生は「私(俺?)は良く評価しますが他の先生は良く評価しないかもしれません」という悩みながらの評価だったのではないでしょうか。
先生の評価も良いですが、
生徒同士でディスカスしあって、
互いの読解内容のすり合わせや発想等を検証し合うのはどうでしょうか。
今大人になって考えると、読書感想文ってめっちゃ面白いですよね。読んだ事に対して感じた事を書くっていう作業自体が、本来は自由なはずなので。その楽しさと、特典で国語力向上まで付いてくる、教育法の一つなのに、切って捨てられてしまうと、とても残念な気がします。
私自身はどうしようもない活字中毒の子供だったし国語の授業もちょっとした作文も大好きでしたが、当時から読書感想文なんかファッキンだと思っていたしそれはいまでも変わらないです。組織的に読書を嫌いにさせるための方法論だとしか思えません。
出典元にあるとおり、守破離でやるべきことなのに実際には、
『いきなり「離」から始まって、小学校高学年でいきなり「守」を求められ、中学では「破」ができる人を尊重するなど、てんで順番が違いますやな』
とやってるわけですから。
この構図がある以上、先生の力量で何かできる方法論があるとは思えないです。
少なくとも小学校低学年レベルで読書感想文を書かせるぐらいなら、その分の時間とリソースをもっと基礎的な方向か将来への導線になり得る方向に振り向けておく方が建設的だと思います。
そもそも小学生が(特に低学年ならなおさら)文字だけの本を読む習慣が無い、あっても少ない状況なのに、
○○はおもしろかった、○○はかっこよかった、とてもワクワクしました。
などと書くと基本的に駄目だしされ、何を書けばいいのかわからない状態のまま9月が過ぎていく…
『感想』とは何か、どうやってそれを原稿用紙数枚分書けばいいのかもわからないままに『夏休み』の宿題として出される…
何かもう、活字の読み書きを嫌いにしたいのかとでも言うような前提がそろってますね。
その刷り込みがきついのか影響は後々まで響いている様なのです。
私はアニメ、漫画、小説、ゲームなどを嗜むオタクなのですが、小説を読む仲間が非常に少ないのです。
文章にも読みやすさ等の違いはあると思うのですが、あんな文字ばかりの本はとても読んでいられないそうです。
私は幸い?中学のころにガンダム等の小説をちょこちょこと読むようになり、そのあたりの問題はなくなったので好き嫌いはともかく大概の活字は苦痛など無く読めています。
まあ、書く方までは気が回らなかったような感じで、ずっと読書感想文は嫌でしたけども。
それ程活字が大事ならしっかり教育環境を整えておけよとは思いますねえ。
何から書けばいいのかも判らず、一行目でずっと止まっていて以降読書感想文に苦手意識ができたのを覚えている。
せめて読書感想文の一例をみせるぐらいのことをして欲しかった。
学校の授業は感想文に限らず
教える側にとっては何度も繰り返し教えているせいか無知な生徒の立場を忘れてる人が多かった。