2005年04月28日

ブログの価値とか独自性とかについての若干の違和感。

あんまりまとまっていなかったりするのだが。

幸いにしてそれ程頻繁なことではないが、ブログに書きたいことを思いついた時、私はたまーにつくづく思いあぐねるのである。「もう誰か書いてんじゃねえかなあ、コレ」と。実は今も思いあぐねながら書いている。これ、結構誰にでもあることなんじゃないだろうか。

この心理をちょっと分析してみて、単純な様で意外に単純でもないかも知れない、ということに思い当たった。自分の中で「オリジナリティ」というものに関する格付けが結構微妙なものであることに気付いたからである。

以下、自分が文章を書く時の傾向について、ちょっと考察してみる。


・ネット上の文章の評価尺度について。

まず前提から。

私に関する限り、エントリーの内容を自己診断する際には、判断基準は二つあると思っている。つまり、「読み物としての価値」と「情報としての価値」の二種類である。

なんだかややこしげな言葉を使っているが、言っていることは単純だ。前者は、要はどれだけ「読んでみて面白い」か、ということを意味している。話題がどうあれ、文章がうまかったり言葉の運びが綺麗だったりしたら多分こちらの評価は高いもんになるであろう。純粋に文章としての面白さの尺度であって、たとえば扱っている話題やテーマ自体はありふれたものであっても読ませる文章というものは、読み物としての価値が高いと言えそうだ。


そして後者は、書いている内容がどれだけ「その人にしか書けない」ものであるか、を示している。つまり「何の話題を扱っているか」という側の問題で、誰もが注目する様な事件について書いたエントリーなどでは、必然的にこちらの価値は下がる筈だ。独自性なんて言葉を使うと薄っぺらく思えるかも知れないが、まあそんなものなのだろう。

少し前にネットでは「一次情報」(ニュースのソースになる側)「二次情報」(ソースに関して注釈をつける側)という言葉をテーマに盛んな議論が起きていた覚えがあるが、その言葉を借りると「一次情報」は情報の価値が高いと言える。まあ、なにもニュース性だけの話ではなく、「誰にでも書けるものではない」とか「一味違った」とか、そういう形容詞がつく様な文章はこちらの価値が高いと言える様に思う。一言で言うと情報の希少価値である

この二つの評価が総合して高い文章は面白い。読み物としても面白いし、情報として考えても「そこでしか読めない」様なエントリーは、そりゃあ面白いに決まっている。人も集まる。たとえばブログ界で著名な人々のブログなどは、大体においてどちらの価値も高い様に思う。でなくてはたくさんの人が継続して読み続けたりはしないだろう。

勿論後者の「情報としての価値」は、興味という名のレンズを通して判定されることになる。ある人が興味を持った情報に、他の誰かも興味を持つとは限らない。たとえば日記などは文字通り「その人しか書けない」エントリーなのであって、情報の希少価値は激しく高い筈であるが、人の私生活に興味のない人からみればどっちらけな文章にしかならない。この辺は微妙なところだ。

とはいえ、文章の価値基準のひとつとして「誰にでも書ける」「誰かにしか書けない」という尺度での希少性が絡む、ということ自体は事実だろう。



・ちょっと待て、ホントにそれ前提か?


上の文章、納得していただけただろうか。それとも違和感があっただろうか。実は問題はここからなのである。

上記の価値基準は、あくまで私の中の枠組みである。つまり私の脳ミソの中には、「情報の独自性」というものと「読み物としての質」が切り離されてレイアウトされており、二つが総合されて全体的な面白さが定まる、というロジックが完成している、ということになる。見方を変えると、普通に考えれば「読み物として面白ければ十分」と思えそうなところを、読み物としての面白さとタメくらいに「情報の独自性」を重視している、という様に言うことも出来る。

この「情報の独自性」に対する希求は人それぞれだろうが、私の中では実は結構大きい。読み物として面白いかどうかはともかく、誰でも書ける様な話題はヤダヤダヤダ、という様な感情が私の中に存在しているのだ。昨日の日記にも書いたが、この「独自性至上主義」とでも言う様な感情を、私はなんとなく不自然に思った。

オリジナリティという言葉は薄っぺらい様で、実は結構メンドーくさい。ネットで文章を書く上での「独自性」という言葉の立ち位置というか必要性を、私は明確に定めることが出来ていないのだ。

「独自性ってなんスか」という、基本的な問いかけに答えることが案外難しい。



・ネットにおける「独自性」に関する疑念


独自性独自性と言うだけなら簡単だが、ネットの文章で「情報としての独自性」を求める、ということは実は至難の業である。ネットの人口は膨大だ。そして、一人が気付いたことには大抵の場合無数の別の人間が気がつく。それが文章にもなる。

つまり、「ある話題」というレベルでものごとを考えてみれば、「既出」になるのは殆ど前提条件と考えてしかるべきなのである

自分が気付いたことは他の人も気付いているだろうな、という、根拠は希薄だがほぼ確実な前提がある。話題が被るだけならまだしも、結論や話の進め方が被る恐れすらある。しかし、ネットの情報量というものはものすげーので、容易にそれを探し当てられる訳でもない。つまり、自分では確認できないが読んだ人には「なんだこれ、この前○○が書いてたのと同じじゃん」とでも言われるかの様な、パラノイアめいた不安というものがぼんやりと生じる。

この辺りの根っこは、「パクリ」というものに対する嫌悪感や恐れにあるんではないかなあとなんとなく思う。

何処も同じなのかも知れないが、最近の「パクリ」に対する拒否反応というものは、結構物凄いレベルに達している気がする。たとえば、こんなページをご存知の方はいるだろうか。

http://red.ribbon.to/~verifylinks/index00.html
http://kuroneko-y.hp.infoseek.co.jp/link2.htm

色々な漫画の同じ様な構図を並べて、それに関してパクリかどうか分析するページが様々ある。上記のURLは、そこに対するリンクを集積されているサイト様である。

リンク先のページ自体に対する意見はまあ色々とあると思うが、私は一言で言って「恐怖」を覚えた。まあ、創作者としてパクリが恥であることは当然だ。創作者は作り出すことが仕事である。自分で何かを作り出す仕事であるのに、人真似で済ませてお金をもらっているとしたら、それはプロとして糾弾されてしかるべきだろう。著作権がどうとかいう以前の問題である。

だが、仮にこれが「単に似ているだけ」というレベルの問題であったとしたら。あるいは、「ちょっと参考にしただけ」というレベルの問題であったとしたらどうか。それでこうも魔女狩の対象になるのだとしたら、遍く創作者は例外なく自分の創作物を恐怖しなくてはならない。

ゴーストライターの社会的立場が低いことも似た様な理由からである。読者は、「ある有名人が書いた本が実はゴーストライターの著作だった」という事実を嫌悪する。この当然の事実が、スキャンダルとして雑誌に掲載されることすらあることがいい証左だ。読む側は「その人にしか書けない」内容を求めているのに、それが実は違いました、という話はまさに嫌悪の対象なのである。


この極端な嫌悪感がどこから生じるものなのか、私にはよくわからない。というか、考えはじめるとそれで一つエントリーが書けそうな勢いである。日本固有の歴史的なものなのかも知れないし、日本の創作文化に根ざすものなのかも知れない。どこの国でも同じ、という可能性も当然考えられる。個人的には、なーんとなく文系的な思考法で、「模倣を基本とした教育が一般的なお国柄で、独自のものを作り上げるということに対する憧れへの裏返し」とかなんとかもっともらしい推測をしてみたくはなるが、まあ枝葉のことなのでどうでもいいといえばどうでもいい。

結論として、「独自性至上主義」の根っこは、どうもパクリに対する嫌悪感にありそうだ、ということだけ分かればとりあえずいい。


さて、上記のごとく考えてきて、自分の中の「独自性の希求」というか、情報の希少価値至上主義に関する結論は一応出た。ここから先は方針というか言い訳というか、パクリ恐怖症に対する免罪符である。



・独自性も色々だ


独自性というものにも色々ある。話題そのものはそんなにものめずらしいものではないが、書いてみるとその人にしか書けない文章に仕上がる、ということは希求されてしかるべきだろうと思う。つまり、「情報の価値」としての希少性はないが、「文章の価値」としての希少性が存在する、ということは普通にあり得る筈だ。

誰でも気がつくことを、誰かにしか書けない形で書くとしたら、その文章にはやっぱり希少価値はあるのである

「その人にしか書けない文章」というものを求めること自体は悪いことではない筈だ、と思う。ただ、その根っこがパクリとか既出というものに対する恐怖にあるとしたら、それはちょっと歪んだ形になってしまうかな、と私は考えるのである。

最終的に独自性があろうがなかろうが、やっぱり思いついたことは書いてしまった方が健全だ。その中で、まあなるべく思いついたことの独自性を高める為に、あーだこーだとひねくれるのがブロガーとしての正しい態度か、となんとなく結論を出したい。

不倒城は基本的にレトロゲームブログである(かなりわき道にそれ勝ちだが)。レトロゲームブログも世の中にはすげー数あって、その大部分は私の好きなゲームを既に紹介されており、しかも画像も文章も大抵の場合私より面白い。そんな中で、まあ色々と斜め三十度くらいの視点からレトロゲームをいじくってみたり、その他様々なテーマをテキトーにいじくってみたり、「しょーもないことを全力で考える」をモットーに、今後ともテキトーに独自性を追求したテキトーなサイト運営をしていきたいと思っている。よろしければお見捨てなくお付き合い頂ければ幸いです。



posted by しんざき at 22:13 | Comment(4) | TrackBack(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
まぁ、なんですか、
誰もが思いつくない威容の記事は、共感はえられやすいかもしれないけれど、誰もが書くような記事は、あえてその記事を読む必要もなく、世論調査の結果を見るのと大差ないのですよ。
ありふれた内容でも、面白おかしく書く方法はあると思うのですが。
Posted by えっけん at 2005年04月29日 01:13
>>えっけんさん
>世論調査の結果を見るのと大差ないのですよ。

そうですねー。その認識があるからなんですが、大きいニュース程興味をもつのに、書くにはあんまり気が進まない、とかそーゆー問題が。まあ書く時は気にせず書くんですが。

「誰でも書く」「誰も書かない」という判断基準を、自分で客観的にもつことは不可能、ってことも気が進まない一つの原因な気がします。
Posted by しんざき at 2005年04月29日 01:36
好きな漫画の主人公のせりふで、
「今これに気づいてるのって宇宙であたしだけ?」
みたいなせりふがあるんですがそういう無理やりな思い込みもいいかなと思う。

扱っているテーマは多くの人の興味を惹く、内容に独自性がある、というのが理想的?

でも多くの人が興味を惹かないという基準で興味を持つ人もいるなあ。おれとか。
Posted by やの at 2005年04月29日 15:00
>やのさん
>でも多くの人が興味を惹かないという基準で興味を持つ人もいるなあ。おれとか。

専属で興味をもっているものに他の誰も賛同してくれないという人もいます。俺とか。

>扱っているテーマは多くの人の興味を惹く、内容に独自性がある、というのが理想的?

ですなあ。ただ、実際内容に独自性があるかどうかは自分ではなかなか確認が難しかったりするのが問題の様なそうでもない様な。

まあ思い込んどけ、というところでしょうか。
Posted by しんざき at 2005年05月01日 22:00
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