多分既出話なのだろうが、いつも通り特に気にせず、思いついたままに書く。様々なケースがあることは一応承知している。
会社側の人間として、採用面接をすることはこの時期多い。自分が、人の人生に影響を及ぼすに足る程の人間だなどと思ったことはないが、それでも仕事は仕事として、私は面接に臨む。中途の方とお話をすることもあるし、学生さんとお話をすることもある。
今日の面接は、来年卒業する予定の方々とのグループ面接だった。会社側の人間数名の中に混じって、私は学生さん数名とお話をした。
その時、会社側の偉い人が聞いた、「大学で得た一番の成果は」という言葉に対して、学生さんは口々に答えた。曰く、サークル活動でこういう企画のリーダーをやって成功させた。○○というボランティアを行った。アルバイトで、××という店の立ち上げに関わった。色々な人たちとコミュニケーションをとって、成功に導いた。会社側の偉い人も、得心顔でうんうんと頷いている。
この時、妙に胸が痛くなった。
彼らは、アピールポイントとして何故、「研究に打ち込み、こういう分野でこういう学問を修めました、修めようとしています」ということではなく、学問とは直接関係のない、「リーダーシップ」であるとか、「コミュニケーション能力」であるとか、そういうことを選択するのだろうか。大学とは、学問を修める為の場所ではないのか。学府ではないのか。
自問するまでもなく、答えは明快だ。会社の側が、社会の側が、「学問」ではなく「リーダーシップ」や「コミュニケーション能力」を求めているから、彼らはそれに特化した答えを返すのだ。会社が、「お前らの学問など仕事では役に立たない」と今まで言ってきたから、学生さんはそれに特化した答えを学習してきたのだ。
悪いことに、私自身、「大学で学んだ知識が仕事に直接役立ったか?」と言われた時、無条件で首を縦には振れない。私は文学部の出身だ。大学時代、奈良時代の巻物に書かれた曲がりくねった文字と格闘しながら過ごしてきた。紆余曲折を経て、今はDB屋もどきだが、時折曲がりくねったSQLと格闘するということがある以外、大学時代に学んだこととの共通項は仕事にない。
勿論、学部や専攻した内容、就こうとする仕事にもよるのだろうが、「大学で学んだ知識、修めた学問が、直接仕事の役に立つ」というケースは、全体で言えばたぶん少数派なのだろう。
しかし、学生さんに対して、「お前らの学んだことは仕事では役に立たない」と伝えることは、果たして正しいことなのか。学生さんが、自分の修めた学問に誇りを持って就職活動に臨めないのは、果たして正しいことなのか。
学生さんは、確かに「まだ社会に出たことのない半人前」なのかも知れない。だがそれ以上に、「ある学問を修めた、一つの分野でのエキスパート」として、我々は彼らを扱うべきだし、学生さんは堂々と、「一つの学問を修めた」という結果を誇るべきなのではないのだろうか。
せめてもの罪滅ぼしとして、私は彼らに、大学で修めた知識について、ある程度専門的なところまで話してくれるようお願いしてみた。喜んで話してくれる人もいれば、しどろもどろになる人もいた。
それは人それぞれだ。人それぞれでいいのだろうと思う。
私は、ただ単に、「あなた達がやってきたことは大事なことなんだよ」と伝えたかったのだ。
2013年04月19日
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「お前らの学んだことは仕事では役に立たない」
「あなた達がやってきたことは大事なことなんだよ」
というのは相反する気持ちですね、正に葛藤そのものだと思います。
人生兵站ではありませんから、やってきたことが
直接リンクしないこともありますでしょうが、
やはり教育と職能の乖離は時間の無駄が多いので解消されるべきでしょうね。
有り体に言えば、
会社も学生も自分たちの将来をどうしたいか、
今何が必要かということが具体的に考えられていないということでしょうか。
逆に、会社がどんな社員が業績を上げてるかわかってないじゃないですかね
とはいえ、理系でも似たような状態のはず。
米国で同じ質問したら、反応はかなり違ったものになりそうですね。
日本の大学では、役に立たないことを必要以上に肯定していることが勉強する気と教える気を低下させているんじゃないかと思う時があります。
根拠のない印象論をあえて書き込みますと、企業で働いている人が学問(の価値)を知らなかったり、日本全体が学問の価値を軽んじているような気がします。歴史学者や教科担当の先生が一生懸命教科書を執筆しても、自分が気に入らなければ「反日」だとか「左翼」だとか書く人、ネットにはわんさか事例がありますからねぇ。法律学に詳しければ司法試験崩れとされ、経済学に強ければ人間性に問題がある、みたいに思っている人、そうとういると推測します。
大学で教える教養(リベラルアーツ)は階級的なもので、貴族や裕福な商人といった働く必要のない人間、人を使う側の人間のための知識。本来、大学は研究を行うための機関であって、知識と教養の伝播を行うのは研究者の組織を維持するため。社会のために実用的な学問を授けるための組織ではないのでは。
今のリベラルアーツは文学や芸術だけではなく、非常に幅広いもの。
昔の貴族のお稽古事ではない。
アメリカでは最近は大学での一般教養の重要性が強調されていて、専門しか学ばないよりは、専門に加えて、一般教養などさまざまな分野で幅広く学ぶことがコミュニケーション能力や問題解決能力を高めると主張されている。
日本では、コミュニケーション能力や問題解決能力は部活やバイトで養われると思われているがね。
それってワザワザ大学行く必要あったの?みたいな
企業が求めるのは学問それ自体ではなくレポート作成やゼミで身に着ける文書作成、情報収集・分析、プレゼンテーション能力。そして、同僚・上司と上手くやる能力でしょう。サークルやボランティア活動のリーダーシップやコミュニケーション能力を要求するのは、組織の一員としての主体性(期待をくみ取って進んで滅私奉公的な意味での主体性)を期待しているから。
>大学での一般教養の重要性が強調
内田樹氏がブログで書いてましたね。ttp://blog.tatsuru.com/2012/04/06_1508.php
自分の専門以外のことに関心を持たない、何も知らないくせにプライドばかり高くて使えない人材(専門バカ)になってしまうからでしょう。知識を得る(学ぶ)ための前提となるのが教養。
しかし、専門以外にも知識を身に着けるために必要というだけで、教養それ自体が役に立つわけじゃありません。
>学生たちは「社会が必要としている」事を面接という特殊な場で披露している
まさにそういうことを、しんざきさんはこの文章で言っていて、だから企業側がもっと学生の専門知識を求めていくべきじゃないか、と言っているのですよ。
学生への批判じゃありません。社会への批判です。
学生の中で自分の修めた学問に対して誇りを持っている人は少ないように思う。
誇りを持っているが社会にウケないから他の活動をアピールする、というよりは
そもそも自分の修めた学問の価値が分からないから、とりあえず色々やってみました。みたいな。
そもそも知識の習得に真面目に取り組む学生が少ない気もしますが…
それは学生・企業・親も含めての話ですが
そもそも大学という所は学問を修めて研究をするための場所なのに、そこに群がり学歴という資格だけを求めた外の人間全員に責任者があるのではないでしょうか?
自分が何を学びたいか研究したいかを分からず入学した学生、どの系統の学部からどんなスキルや経験のある学生を採用したいかが明確でない企業、両者とも大学に対しての認識があやふやだと感じます
もちろん確かな志しを持って勉学に励んでいる学生も少なくはないですし、理系の技術・研究職などの採用では在学中の研究や実績が重視されてもいますが