2013年05月10日
「作者の思想の為に描かれた創作」があんまり好きではない
夕飯時、奥様とした会話。
私「ゲド戦記、3巻までで映画化すれば良かったのにねー。1巻だけとか2巻だけとか」
奥様「2巻どんなのだっけ?」
私「テナーが出てくる話」
奥様「あー」
私「ゲド戦記も3巻まではすっごい面白かったんだけどなー。4巻以降は、どうも、作者の思想の為に書かれた話って感じで」
奥様「んー、けど、作者の意図を考えながら読み進めるのも楽しいと思うけどなあ」
なるほど、これは好みの問題かも知れない。
以前も書いたが、私は、ゲド戦記の4巻と5巻があまり好きではない。3巻までは、有色人種差別というテーマこそあれ、作者の思想がそれほど前面に出てきているという印象はなかったのだが、4巻以降、ゲド戦記は余りに「フェミニズムを表現する為のお話」になってしまったように思うからだ。端的に言って、私はゲド戦記1巻から3巻は「ゲドの生涯を綴る為の話」であるのに対し、4巻、5巻は「フェミニズムを主張する為にゲドの物語を利用しているお話」である、と感じた。違った感じ方をした人もいるのだろうが。
私は、「思想はキャラクターに背骨を通す為の手段」であると考えている。キャラクターは、それぞれ、そのキャラクターの思想を持っているべきだし、作中でそのキャラクターの思想を語るべきだ。それに対し、「作者の思想を語るのが目的であって、キャラクターはその為の手段」というのは本末転倒だ、と私は考えている。それは、単に作者のマイクをキャラクターがやっているだけだ、と思う。
ただ、奥様に言わせれば、「物語だけではなく、作者が何を考えてその話を書いたのか、というのもコンテンツの内」なのであって、そういう意味で、奥様は「作者の思想を表現する為の物語」も問題なくコンテンツとして消費出来るらしい。なるほど、「作者の意図」というものをメインコンテンツと考えれば、作者の思想ががんがん前面に出てくるのは大歓迎なのかも知れない。そういう読み方もありだろう。
恐らくこれは好みの話なのだろう、というか単純に私の心が狭いのかも知れない。3巻までのゲド戦記の方が4巻以降より面白いと思う、という意見は変わらないけど。やっぱほら、1巻のゲドとか超かっこいいですし。「オジオン様、私は狩りに出かけます」とかもう。
ということで、こういう話題になると必ず出てくる田中芳樹先生とかご壮健で頑張って欲しいと思います。タイタニアの4巻なんとかしてください。

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後者だと、第一巻では「20世紀も終わりに近づいた」年なのに、最新刊では(作品内時間では半年くらいしか経って無い筈なのに)社会情勢が20年くらいワープしてる某伝とか。
話を戻すと、作品内のキャラクターとて何かしらの考えを持っているわけだから、それを表現するのは別段問題とは思えません。例えば貴族主義の選民思想を持っていると言う設定のキャラクターがそれに従った台詞を喋るのは(その思想の良し悪しはさておき)作品としては問題無いわけです。(基本的にそういう作品では、それに反対する立場のキャラクターも居て、反対者はその立場に沿ったことを言うわけですから)
ただ、作者の思想を作品内キャラクターに喋らせるのは、それについて何らかの批判を受けた時「いやこれは作品内の事だから」と逃げ道を作っているだけであって、それをコンテンツと言うにはちょっとどころではなく違和感を覚えます。まして作品の方向とは全く違った方向の思想を混ぜ込んでいるのならなおさらです。(最初に書いた雁屋某とかね)
作者の思想を表現したいなら、それは創作キャラクターをマイク代わりにするのではなく、きちんと自伝なりなんなりの形をとって発表すれば良いのですから。
以前、宮崎駿さんが「プロパガンダ映画なんて作らない。あれは伝えたいことがもう決まってる。自然を大切にしましょうなんて子供でもわかってる。そういう映画じゃなく、解決不可能な問題を映画にとりこみたい」みたいな事を言ってましたね。
記憶があいまいなんでちょっと違うかもしれませんけど、めっちゃ感動した事をよく覚えています。
私も作者の思想の為のキャラや描写は、読んでいて退屈してしまいがちです。
特に2回目の読書では読み飛ばしかねない勢いですね。
この原因はやっぱり読み終わったダメ推理小説のような、着地点が見えちゃってるからだと思ってます。
ワクワク感がありませんもんね。
原題ではあくまでアースシー世界の物語であって、本来、ゲド(の戦い)を中心とした物語ではないのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Earthsea
利用した、というのなら、日本の出版社が宣伝のためにゲドを利用した、というべきではないでしょうか。
「それ」に気づいた時、作者とそれまで楽しんでいた話まで一気に嫌いになった。