2013年05月14日
「自分の意見の反対側に立って物を考えてみる」というスタンスのお話
随分昔の話だ。まだ中学だか高校くらいだった頃、何の時間だったか忘れたが、ディベートの授業を受けたことがある。
議論のやり方とか細かい話には立ち入らなかったのだが、その時はなかなか面白いやり方だと感じ、今でもたまに思い出す。一言で言って、「自分が反対する立場に立って議論をする」というものだったのだ。ある程度ディベートの経験がある人にはそもそも当たり前のスタンスなのだろうが、当時の私にはなかなか新鮮だった。
確か、その時のテーマは「死刑制度存続に賛成か反対か」だった様に記憶している。私は随分口が回る方だったので、トップバッターとして自分に反対する論客として指名されて、随分難儀したことを覚えている。
当時、私の先生はこんなことを言っていた。
「自分に反対する立場の人だったら、自分に何というか?を考えろ。自分に反対する立場の論拠を考えろ。議論のテクニックがどうとかはそれが出来るようになった後だ」
「明らかに間違った意見なんてものはそもそも顧みられない。議論というのは正論と正論が対立するものだ。だから、相手の正論が理解出来ないと、議論は半分しか出来ない」
「理解することは尊重することだ。相手の正論を尊重出来ない者の議論は、ただの口げんかだ」
細かい言葉は正直よく覚えていないので適当に補完しているが、大体のニュアンスは合っていると思う。
今でも、私の思考の根っこには、この時教えてもらった言葉がある。勿論、先生が言ったことが全て正しかったとは思っていないが、何かを真剣に考える時は、少なくとも一度は「反対の視点」からも考えてみないといけないと思うし、そうすることで見えていなかったことが見えてくることもある。
いや、そんなに大げさな話ではないのだ。むしろ当然というか、私は今まで、そういうスタンスはある程度「常識」だと思っていた。いたのだが、どうもWebを見ていると、今一つ上の「常識」にコミットしていない人も観測できるというか。
端的に言って、「相手の意見は明らかに間違っている」というスタンスでしか議論をしない人も一定数いるように思うのだ。
言うまでもなく、この話は無限ループを内包しており、ここで「そういうスタンスは明らかに間違っている!」と私が主張すれば様式美のブーメランが投擲出来る訳だが、特段ネタ構築の意図はない。実際のところ、表に出てくるテキストはその人の全てではないし、いわゆる「テクニック」として、相手に一切歩み寄りを見せない、というのももしかするとアリなのかも知れない。
ただまあ、例えば「明白な事実誤認」があったとして、それを指摘することはそもそも議論とは言わんだろうし、相手が完全に間違っていることを確信して、それをねじ伏せる為に言葉を尽くすなら議論ではなく説伏なんじゃないかなあ、と私は思う。しかし、世の中にはどうも、そういうテンションで議論めいたことをする人もいるようなのだ。
ここ最近、例えばTogetterを見たり、例えばはてブを観測したりしていて、ふと上のようなことを思い出した。
昼行燈として通っている私としては、まあまあ、たまには「反対側」に立ってみるのも面白いかも知れないですよ、という程度に日和った主張をするにとどめたいと思う。
今日いいたいことはそれくらい。

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これ面白いですね
確かに議論である以上、相手を潰しにかかることより相手を理解しながら妥協点を探した方が得ですもんね。
よい成果が得られそうです。
逆に、相手に明らかな事実誤認がある状況で行っても良い結果が得られそうです。相手に理解を示して、相手を泳がせ、明らかに破たんした論理を支持してるフリをしながら修正案を出せば、うまい落とし所にたどり着ける感じがしますね。
なんか「負けるが勝ち」って感じです(笑)
明確な事実誤認に薄々気がつきつつも、
気がついてない振りをして議論してるふりをしてる
相手方にも問題はるとおもいますけど(むしろ問題のスタートはそこかな)
議論は双方あって成り立つものですし