ドラゴンボールの話です。ラディッツさんの話ともいいます。既出かも知れませんがまあ気にしないことにします。
皆様よくご存じの通り、「戦闘力・・・たったの5か・・・ゴミめ」というのは、ドラゴンボールの17巻におけるラディッツさんの初登場シーンにおいて、猟銃を持った農夫のおっさん相手に、ラディッツさんがスカウターの表示を読んで言い放った言葉です。Web界隈の様々なセンテンスの中でも、かなり著名な部類に入る言葉だと思います。「バルス」を戦闘力53万としても、戦闘力100,000くらいはいくんじゃないでしょうか。
この言葉、数ある様々な漫画の名言の中でも、トップレベルに「一言で物語上の色んな役割を担っている言葉」の一つだと思います。
私が考える限り、この台詞には、大きく5つくらいの役割があります。
1.今後、物語に「戦闘力」という軸が加わることの宣言
2.上記に関連して、「スカウター」というアイテムの役割を明示
3.戦闘力の基準として、「銃をもった成年男性」が戦闘力5くらい、という非常に分かり易く誤解の余地が少ない物差しを明示
4.かつ、新キャラクターの勢力がどの程度脅威となり、どういう文化を持っているのかを明示
5.ラディッツというキャラクターの性格、キャラづけを明示
簡単に見ていってみましょう。
1.今後、物語に「戦闘力」という軸が加わることの宣言
有名な話だと思いますが、ドラゴンボールという漫画で「戦闘力」という言葉が使われたのは、ラディッツ登場時のこの台詞が最初です。これ以前は、どんなに強いヤツが現れても、そいつの強さは数値化されませんでした。亀仙人も、天津半も、ピッコロ大魔王も、マジュニアも、これ以前の時点では強さの物差しをあてられていません。
これ以降、スカウターというアイテムを導入されたドラゴンボール世界は、「戦闘力」という新たな物差しを縦横無尽に利用します。
新たな敵が現れた時、「戦闘力」という分かり易い数値は、その脅威を読者に知らしめるのにうってつけでした。
戦闘力に差がある状況からの大逆転を演出する時、Z戦士達の「自分の意思で戦闘力を操作出来る」という設定はうってつけでした。
インフレ展開という批判は当時からあったとは思いますが、ドラゴンボールのインフレは、少なくともフリーザ編くらいまでは、議論の余地なく「面白いインフレ」でした。「面白いインフレ」は少年漫画の一つの王道だと私は思います。
この、「戦闘力という物差しの物語への導入」というのが、まずは件の台詞の一番の役割だったことは論を俟たないでしょう。
2.上記に関連して、「スカウター」というアイテムの役割を明示
なんかかっこよさげな新アイテムが出てきた時。多くの場合、そこには「説明」の必要が生じます。時には独り言で、時にはもくもく台詞で、時には第三者の解説で、誰かが読者に向かって、「このアイテムにはこんな効果があるんだよ」と解説するのです。この時、解説が不自然な場合もあれば自然な場合もあります。
何かを「解説」する時、それをどれだけ自然に、スムーズに行えるかは、物語を描写する人の一つの腕の見せ所でもあります。
スカウターの「解説」は、驚愕する程に自然であり、瞠目する程にスムーズでした。上記のたった一言と、「ピピ…」という効果音と、農夫のおっさんのシルエットだけで、「ああ、これは相手の強さを表示する為のアイテムなんだな」という説明が、殆ど誤解を許さない程の明確さで読者に提示されるのです。
「戦闘力」という言葉の物凄い分かり易さもこの理解に一役買っているでしょう。戦闘する力。1ナノグラムの誤解の余地もありません。
こと「誤解の招きにくさ」という点においては、先達である「キン肉マン」の「超人強度」という言葉すら超えているかも知れません。この辺り、鳥山先生の言葉のチョイスには舌を巻く他ありません。
3.戦闘力の基準として、「銃をもった成年男性」が戦闘力5くらい、という非常に分かり易く誤解の余地が少ない物差しを明示
これも、「分かり易さ」という一点に資する話なのですが。
ドラゴンボールという漫画において、基本「銃」というのはお笑い用の小道具であり、序盤のごく一時期を除いて、主要キャラクター達相手には殆ど意味をなしません。銃は、ドラゴンボールの主役キャラクター達に当たりませんし、当たっても効きません。レッドリボン軍本部にカチ込んだ悟空が、ライフルの一撃を「いってーー!」の一言で済ませたのは、その側面を端的にあらわしているといえるでしょう。
とはいえ、勿論言うまでもなく、一般人の我々にとって「銃」というものは恐るべき脅威です。大抵の場合、銃で撃たれると大変痛いし大怪我をします。一般の人間で銃に対する耐性をもっているのはチャック・ノリスとスティーブン・セガールくらいのもんです。
レッドリボン軍編などを見ていればわかる通り、ドラゴンボールの劇中の「銃」の役割は、いわば「超強い人達」と「一般人」の境界線をさす記号なのです。
「戦闘力5」という端的な数字によって、今までは描写でしか表現されなかった「境界線」が、非常に明確な形で可視化されました。「銃をもった一般人」という、いわば普通の人の天井が、5。戦闘力5。
ここから、後に出てくる悟空の「戦闘力416」ですとか、マジュニアの408といった数字、更にその遥か上を行くラディッツの「1500」といった数字が、圧倒的な説得力と迫力を持って読者の前に現れる訳です。
4.新キャラクターの勢力がどの程度脅威となり、どういう文化を持っているのかを明示
5.ラディッツというキャラクターの性格、キャラづけを明示
件の台詞は、多くの場合ある程度の説明を必要とする「新キャラクター、新勢力の位置づけ」というものも、一発で済ませてしまっています。
「戦闘力が低い→ゴミ」という新キャラクター(ラディッツ)の決め付けから、読者はいろんなことを知ったり、予想することが出来ます。
・新キャラクター、ないし新勢力が、強さを非常に重視する価値観を持っていること
・同じく、強くないものに対して非常に冷淡かつ冷酷であること
・スカウターという、地球にはない技術を持っていること
・そこから、いろんな新技術の登場が予想されること→お話がSF的な展開になりそうだ、ということ
盛りだくさんです。
何よりも凄いことは、上の1〜3までも含めて、これら全てが「説明」を一言も要さず、本当にキャラクターの自然な一言で為されていることだ、と思うのです。たった一言。たった一言で、新しく登場させた物差し、新キャラクター、新設定、新技術のお披露目から新勢力の示唆までやってのける鳥山先生は、やはり天才だと私は思うわけなのです。
「戦闘力たったの5」という言葉で始まったサイヤ人-フリーザ編は、同じくフリーザの部下がトランクスに向かって発した「戦闘力たったの5」という言葉で幕を引き、以降スカウターは登場しなくなり、やがて「キリ」という新しい強さの物差しが出てきたりもする訳ですが。
なにはともあれ、この「戦闘力たったの5」という台詞が一つの象徴であり、鳥山先生自身も恐らく意識的に、「最初と最後」にこの台詞を使われたのではないかと私は思います。
大概長くなりました。「ドラゴンボールすごいね!」ということ以外言いたいことは特にありませんので、今日はこの辺で。
トランクスの戦闘力が5と判定されてたことを思い出して、それがフリーザ編の締めという表現に、震えました。
鳥山先生は画力に注目されがちですが、ストーリーテラーとしても相当なもんですよね。
銃込みの数値なのか銃なしの数値かは未だに議論になってるぞ
なぜ断定できる?
まぁ、競争社会だから優劣付くのは当然だけどね。
ちょっと便乗して似た話を語らせてほしい…。
グルドの時を止める能力は「ぷはぁっ!」という息継ぎとともに何気なく解除されるが、たったそれだけのセリフで「時を止める」=「水に潜る行為」とシンプルに換喩されている。そのイメージから
@「止められる時間は人間の潜水可能な時間くらいであろうこと」
A「連続すると短くなるであろうこと(十分な息継ぎが必要)」
B「超能力(強い攻撃)するには余裕(十分な息継ぎ)が必要であろうこと」
…と連想できるので、こむずかしくなりがちないわゆる「能力者バトル」なのに、その後の展開を理解するのにまったくストレスがない(といってもグルドはさっさと退場したが)。
「難しい事をシンプルに伝える」ためにかなり繊細に表現に関して気を配っているように感じる。
ラディッツは悟空が弱音を吐いた数少ないキャラです。
気は生命エネルギーだし、抑機械にそんなモノはない。
本人の力を数値化したものなのは後の展開みてればわかる
物の力が評価されてたら、道着とか脱いだら防御力さがって数値下がるでしょ
だけど重い物剥いだら動きやすくなって戦闘力がアップしてるから
武器じゃなくて本人がどう戦闘できるかっていう数値だと思うよ
武器込みの親父が5なら戦闘力がそれを上回るサタンは悟空とか並の超人レベルってことになるでしょ
よって武器込みじゃなくて、単に親父の戦闘力が5だということが導ける
村長をレッドリボン軍のモブ兵士に人質に取られたときに後ろを向くように言われて後ろから撃たれたときは大ダメージで倒れて動けなくなって人造人間のハッチャンに助けられなければ普通に死んで終わりの危機でしたよ。