2007年03月26日

許せないブロガーと、怒れないブロガー。

あんまポジティブな話じゃないが。


随分昔、「書く」ことで食っていければいいなーと思ったことが、そういえばあった。一時期それに近いバイトもしていたんだが、結局諦めた。諦めて正解だったと今では思っている。

何故かというに、多分私には「許せんと思う能力」が決定的に欠けている


文章を書くという行為は二段階に分かれる。「発想」と「表現」である。書いて面白いことを思いつくかどうかが「発想」のパートであり、それを上手く文章に書けるかどうかが「表現」のパートである。

「表現」は、その種類こそ数限りなく存在するが、要するに技術だ。技術は練習によって磨かれる。

本を一度も読んでいない人でも、努力次第で売り物になる文章力を手に入れることは可能だ。志賀直哉や三島由紀夫の語り口を身につけることだって、それ相応の時間をかければ出来るだろう。

一方の「発想」は、努力次第で引き出しを多くすることは当然可能だが、最終的には才能だ。「多くの人を引き付けるネタ」を安定して発想出来るかどうかは、徹頭徹尾センスの問題である。


そして多分、「発想」の強烈なブースターというか、重要な1パーツを担っているのが「何かを許せないと感じる能力」なんではないか、と思う。

批判能力とか、怒りんぼパワーとか、色んな言葉で言い換えることが出来るだろう。


ブログを書くこと、それ以上にブログを読むことによって、かつて薄々感じていたことをつくづく実感した。コラム、エッセイ、時事ネタ記事からブログ論や一部の創作に至るまで、「これは許せん」という感情から生み出される発想というのは、本当に豊富なのだ。パワーに溢れているのだ。

ブログ界隈でいえば、例えば一時期隆盛したトラックバック問題。匿名実名議論。リンクフリー問題。

ブログに留まらない問題なら、例えばウヨサヨ論争。政治論、マスコミ論、世評、全ては「ある対象への批判」時にはある対象の否定、場合によってはあら探しに立脚している。ずっと昔から例外なく。


そして、「許せん」という思いは、いい意味でも悪い意味でも読む人を引き付ける。何かを肯定する記事よりも、何かを否定する記事の方が視線を集めるものなのだ。
でなければ週刊誌は売れないし、はてなブックマークで「これはひどい」タグが隆盛することもない。悪い側面の話では、例えばブログの炎上とか2ちゃんの一部の板の繁栄も、全ては「許せんという感情」に根ざしている。

「許せん」という議論が建設的、論理的である場合もあれば、そうでない場合もある。取り敢えずそれは置く。


何かを否定しようという欲求が明確だから、色々な材料が思いつく。発想が沸く。論争を呼ぶ。

そして、何かを否定する指針が明確だから、明確な結論を導くことが出来る。読む側からすれば非常に分かりやすい。


私には「嫌いなもの」があんまり無い。
「嫌いなこと」もあんまり無い。

私は多分、何かを分析したり思考実験にかけることはそれなりに出来る、と思う。何かおかしいと感じたり、おかしいと感じた理由をつきつめたりすることもまあそれなりには出来る、と思う。

でも、それはつまり書き手としてのパワーには欠けているのだ。何かおかしいかな、という違和感を感じても、まあそういうのもありなんじゃないかね、と私は思ってしまう。それ以上突き詰めるところまでなかなか辿り着けない。突き詰めたとしても、明確な結論はあんまり出ない。ネット上の論争のトリガーになることなんか到底無理だ。

だから、私は多分、「発想」を常に必要とされる職業では食えなかっただろうと思う。


Web上で怒っている人を見る時、私は色んな感想を持つ。勿論、その人が怒っている内容に考えさせられる。それがトリガーになって自分で色々と考えることもあるし、そんなこと気にして疲れないんかな、と思うことも時にはある。

そして、「こう怒れるのは凄いな」と思うことも、揶揄でも皮肉でもなんでもなく、ある。結構よくある。


Web上での議論を遠慮する必要なんかどこにもない。批判や怒りがない静かなWebなんかつまらない。「怒れる資質」をもっている人には、やり過ぎない程度にばきばき頑張って欲しいと思う。


そんな中、「怒れないブロガー」としてひっそりのらくらと書き続けていくにはどうしたもんかなー、と、私はなんとなく考えている。
posted by しんざき at 19:17 | Comment(9) | TrackBack(2) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
こんにちは、はじめまして。
はてぶ、リーセントポピュラーからきました。

怒ることに才能は無いと思います。テーマに対する調査が不十分だとしらけた文書になり、調査が十分だと熱い文書になるだけです。

逆に志賀直哉の文体を模倣できると言い切っていますが、大間違い。志賀は文で人を引きつけるのではありません。存在で引きつけるのです。それは、言葉の流れやチョイスに完全に依存します

もう少し勉強されてはいかがでしょうか。
Posted by kodamatic at 2007年03月27日 12:08

>kodamaticさん
コメントありがとうございます。

>怒ることに才能は無いと思います。テーマに対する調査が不十分だとしらけた文書になり、調査が十分だと熱い文書になるだけです。

いやあ、才能だと思いますよ。怒る、というよりは、どちらかというと「許せん」とか「見過ごせん」と感じることが出来る才能、といいますか。あるいは、「まあいいか」で済ませない才能。これは「怒る」のとはちょっと違います。

例えば、私が第三者として↑の文章を読んで、kodamaticさんが感じたことをうっすらと感じたとしても、わざわざコメントしたりはしないでしょう。私は大抵「ま、いいか別に」で片付けてしまって、その先の発想まで至らない人間ですから。

そういう意味で、kodamaticさんは「才能持ち」だと思います。その才能、大事にしてください。

>志賀は文で人を引きつけるのではありません。存在で引きつけるのです。

えーと、上の文章を読んで頂けると分かりますが、私は「表現は真似出来る。発想はそうはいかんが」という文脈で志賀を引き合いに出しているつもりですよ。
だから、志賀の表現だけを真似しても、人を引き付けることが出来ないのは至極当然ですね。

ただ、単語のチョイスや流れという話なら、すごーく頑張れば表層を真似ることは出来ると思います。志賀の文章も無限ではありませんから。

Posted by しんざき at 2007年03月27日 14:45
最近流行りのこれらは、
「怒り」というよりもむしろ「気に食わない」といった言い方の方がしっくりくる様な気がしています。
当然「怒り」も多くあると思っていますが。

それと、他者を批判することで快感を覚える人が多く目に付くようになってきましたので、
そういったこともあるのではと考えています。
かわいそうですね。
Posted by at 2007年03月27日 22:12
>名無しさん
>「怒り」というよりもむしろ「気に食わない」といった言い方の方がしっくりくる様な気がしています。

スルーしない、という意味ではそうでしょうね。感情のラベル貼りは難しいんで、言葉の問題にはなってしまいますが。

>かわいそうですね。

うーん、どうなんでしょう。「攻撃することによる快感」というもの自体は多分誰にでもあるんだろうと思います。それを好むか、そこまででもないか、という差はありそうですが。
Posted by しんざき at 2007年03月28日 10:56
めちゃくちゃ乱暴に言えば、優れた書き手に最も必要な要素(資質)は「変」の度合いじゃないかと。(学術論文や評論などの類は除いて)

文章も基本は自己表現ですので、元々書き手の中に「現実との"強い"齟齬感」がなければ怒りも掘り下げられないしなかなか持続しない(書く強烈なモチベーションにならない)と思うんです。

自分を取り巻くリアル(生活現実)の中で、コミュニケーション能力も一定以上あって「うまくやっていける」人は、わざわざ自己表現として文章を書き連ねる必要がない。「とりあえず何か書いておかないと自我が崩壊しかねん」ぐらいの違和感・齟齬感に表現技術や知識経験などが加わって人をひきつけるような文章が生まれるんじゃないでしょうか。

勿論、自分(の中の何か)がどれだけ周囲・世間・社会・メジャーなものと異なっているか測れる、自己を客観視する能力も必要ですけどね。

まぁ、違和感齟齬感は、別に否定的なものでなくてもいいと思います。「俺はこんなもの(考え方でも価値観でも)がこんなに好きなのに(これだけいいと思ってるのに)なんでみんな分からないんだ!」→「絶対認めさせてやる」になりますから(笑)
Posted by ncd108 at 2007年03月28日 16:45
>ncd108さん
>「とりあえず何か書いておかないと自我が崩壊しかねん」ぐらいの違和感・齟齬感に表現技術や知識経験などが加わって人をひきつけるような文章が生まれるんじゃないでしょうか。

違和感・齟齬感っていう捉え方は面白いですね。普通の人が感じるところと違う捉え方が出来る、というのが発想にあてって重要なのかなあ、ということは私も思いした。

それをどう「普通の人にも受け入れられる様に書くか」っていうのが技術の問題なんでしょうね。

>違和感齟齬感は、別に否定的なものでなくてもいいと思います。

ああ、そうだ、そうです。だから「怒り」「許せない」って言葉はあんまりぴったり来ないなーと思ったんだ。なるほど。

的確に言語化して下さってありがとうございます。
Posted by しんざき at 2007年03月29日 16:22
いえいえ、興味深い考察なので、又機会があれば是非掘り下げて書いて頂きたいと思います。

>それをどう「普通の人にも受け入れられる様に書くか」っていうのが技術の問題なんでしょうね。

そーですね。私には多少前述した違和感・齟齬感のようなものはあるんですが、バックグラウンドの知識経験と表現する技量がないので面白いもの書けません(苦笑)

もっとも、その場ではとりあえず読んでもらえるような文章のレベルから、「継続的に読ませる=読む側が主体的にその書き手を追っかけるような文章」のレベルにまで行くには他にも色々なものが必要でしょうけどね・・・
Posted by ncd108 at 2007年04月03日 17:06
ああ非常に身につまされる内容。
最近映画『蟲師』があまりにも酷い出来だったので久しぶりに怒り丸出しのエントリ書いたら、
すごく久しぶりにニュースサイト系に拾われてアクセス爆発が。
どうせならポジティブな内容にくればよかったのにと思いつつも、
そういうものなのかなあとも思ってみたり。
Posted by 木戸孝紀 at 2007年04月04日 20:43
>木戸さん
ニュースサイトさんにも傾向がありますよね。どちらかというと「怒り」を含んだエントリーを多く拾われる方もいるみたいです。

件のエントリー、今読ませて頂いたんですが、蟲師、そんな出来でしたか。うーん。ファンの感覚との誤差はどこからくるのかなあ。

それはそうと、世界樹のリプレイ読ませて頂いてますよ。昔のロードスとかソードワールドリプレイなんか思い出してすげえ懐かしかったり。
Posted by しんざき at 2007年04月04日 23:33
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック

たとえば、[ちょっと休憩☆]という価値。
Excerpt: 受け止め方によってはものすごく失礼な言い草かもしれないのですが。 不倒城: 許せないブロガーと、怒れないブロガー。: そ
Weblog: CONCORDE
Tracked: 2007-03-28 00:38

「怒り」に対する違和感
Excerpt: 許せないブロガーと、怒れないブロガー。 あー、これ分かるなあ。 俺も「許せんっ!
Weblog: 100年日記
Tracked: 2007-08-01 17:24