一対一の恋愛関係はもう限界だ!
世間では多くの人が「つきあうのは必ず一対一で!」というような見解を持っているようなのですが、どうしてなんだろ? 別に一対一じゃなくてもいいじゃーん。
引用元はなんだか色々話が発展しているので、追っかけてみるのもよろしいかと思う。
倫理とか法というものは、つきつめて考えると多分単なる契約である。
殺されたくない人達が、「人を殺すのはやめよう」という共通の契約を結ぶ。すると、その契約の範囲内では殺されないで済む。
盗まれたくない人達が、「人から盗むのはやめよう」という共通の契約を結ぶ。すると、その契約の範囲内では盗まれないで済む。
で、その契約は自分以外の多数の人も結んでいないと意味を成さないから、ある程度以上の範囲に及ぶ。その範囲というのは、村だったり街だったり国だったりする。多分これが法律だ。いや、歴史的とか法律学的にどうなのかは知らんが。
「人を殺すのは悪である」という命題は、要は大多数の人は殺されることを望んでいないから、という前提の下で成立することだ。殺されたくないから殺さない。殺されるリスクと殺す自由の等価交換だ。って、この表現は昔何かの小説で読んだな。神林長平だっけ。
一対一の恋愛倫理感というものは、社会の大多数が「浮気されてもいいや」と思っていれば成立しない。多くの人が、「相手が浮気するとイヤだなあ」という独占欲を有しているから、恋愛は一対一で行うもの、というある種の暗黙裡の契約が発生する。
倫理と法律の差異というのは、前者は適用される範囲が曖昧だということと、適用される罰も曖昧だということだ。罰は陰口だったり、シカトだったり、社会的立場の低下だったりする。
恋愛という個人的問題の場合、恋愛の当事者間という「範囲」は多分社会一般の「範囲」よりも拘束力が強いから、当事者間全てが納得していれば、多対多という恋愛もありなのかなあ、とは思う。
ただ、独占欲っていうのは人間の割と基本的な欲求だから、実際には結構難しいんじゃないかとも思うが。
なんかしちめんどーくさい表現で書いてしまったが、要は「浮気されたくない人は浮気しない方がいいんじゃね」と、「相手が浮気されたくなかったら大手を振って浮気しない方がいいんじゃね」ということだと思って頂けると。
しちめんどうくさい話、以上。
あー。早くサポートの電話かかってこねえかな。