そういう人もいる。一定数いる。
まず最初に、島国大和先生のツイートを引用してみたい。本当はtwitterの形式を保って引用したいのだが、seesaaのtwitter引用機能が極めて残念な感じなので仕方なく引用タグで。見づらくてすいません。
俺の昔の記事 http://b.hatena.ne.jp/entry/dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2861.html … に関して。https://twitter.com/shimaguniyamato/status/499424321396174849
『はぁ?子供つくったら絶対に人生破綻しないの?子供にケツふいてもらえるから???』というコメントは一体どこをどう読んだらそうなるのか。そんなことが一体ドコに書いてあるのか。みたいなのがあって。https://twitter.com/shimaguniyamato/status/499424517068836865
あとこれな『“人生の消化試合化を防ぐには、未来が未確定な人たちの面倒を見るのが効果的だ。”お前のエゴに子供を付き合わせるんじゃねえよカスが今すぐ死ね』 すごいでしょ。ついニヤニヤしちゃう出来栄え。https://twitter.com/shimaguniyamato/status/499424663894646786
ちょっと元記事にもあたらせて頂く。ほぼ全編、子どもの年齢によってどんな費用や労力が必要か、という点がメインと思われるので、ポイントになり得るとすれば、上の引用でも触れられている以下の点のみだろう。
さらにいうと、これだけのコストを支払っても、子供というのは未来そのものなので、価値があると思う。うん。
人生の消化試合化を防ぐには、未来が未確定な人たちの面倒を見るのが効果的だ。
はてブのコメントで、この記事に好意的な内容をフィルターして概観すると、まず最初に、「挙げている価格が妥当でない」「主観的」といった批判コメントが目につく。まあ、これ自体、島国大和先生は地域差や印象についての話、という留保をされているので、批判として妥当かどうかは微妙だが、まあ少なくとも内容を踏まえた上での批判とはいえるだろう。
然るに、
はぁ?子供つくったら絶対に人生破綻しないの?子供にケツふいてもらえるから???というのは、確かに意味が分からない。読解する際途方に暮れるレベルだ。
無理を承知で推測するとすれば、上で引用した「人生の消化試合化を防ぐには、未来が未確定な人たちの面倒を見るのが効果的」というテキストを、「人生の消化試合→人生が(おそらく経済的に)破たんしている状態」「未来が未確定な人たちの面倒を見るのが効果的→子供を育てることによってそれを防ぐことが出来る」と無理やり解釈している、ように思える。普通に考えれば頭大丈夫かというレベルの曲解だが、まあ、そう解釈する人も世の中にはいるのかも、という話だ。
以下は、私一人の経験則に基づく話なのだが。
まず、Webの界隈には、何か「言いたいこと」を元々持っていて、それについてのトリガーになる単語(テキストですらなく)を見たら、筆者の正確な意図とか何の関係もなく自分の言いたいことだけが吹き上がっちゃう人、というのがいる。
私は、これ自体は別に問題ではないと思う。何か、特定のテキストがトリガーになって、そのテキストとはあんまり関係ない色々な思考が展開することは私にだってよくある。それを元ネタにしてブログを書くことだってある。
ただ、私が考える問題は、
1.そもそもその思考が、筆者の言いたいこととは関係ないことだ、と気付いておらず(あるいは気にしておらず)、
2.しかも思考の方向性が筆者に批判的で、
3.筆者に対して、その「自分の言いたいこと」だけを殆ど直接ぶっかけちゃう人
が、それなりの割合で見られること、なのだ。
以下は推測。
上の島国大和先生の例で言うと、前者のコメントをした人は、「出産・育児についてのネガティブな印象を元々持っており、しかも「自分の老後の為に子供を育てる親」みたいなネガティブイメージも勝手に持っている」人だったのではないか、と推測出来る。要は、思考の方向性が元々「親の子育て」に批判的だったのだ。
で、「自分の言いたいこと」をなんとなくトリガーする人気記事を見つけて、元々の自分の言いたいことを何も考えずにコメントしてしまったのではないか、と考えられるのだ。
二番目のコメント、「お前のエゴに子供を付き合わせるんじゃねえよ」の人も、ほぼそれに準ずるのではないか、と私は推測する。この場合、「自分のエゴだけで出産をし、子供の将来に責任をとらない親」といったネガティブイメージを、恐らく元々持っているのだろう。
こういう人については、「どう読んでそんな的外れなコメントを書いているのか」というものを考えること自体労力の無駄である。最初から筆者の意図通りの読み方などしてはいないのだから。
こういう、「書いてある内容をくみ取っていない批判」というものは、書き手にとっては非常にもやもやとした理不尽感を残しやすい。ただでさえ、批判のコメントは肯定のコメントよりも印象に残るものだ。
その上、当然のことだが、この場合「そんなこと書いてねえよ」と書き手は思ってしまう訳だし、それは「内容をくみとった上での批判」よりももやもやとした形で記憶に残る。理不尽なコメントで書き手がダメージを受けてしまうのは困った話だ。
残念ながら、現状「そういう人」が他人に言葉を噴きつけることを、コメントを拒否するなどの副作用なく防ぐことは難しい。そもそも、「そういう人」は最初から長文を読解出来ない、ないし読解する気がない上、自分のコメントを特に推敲もしない為、改善を望むのは非常に困難だ。
しかも「そういう人」はある程度の割合で「必ず」いるものなのだ。人気記事であればある程、「そういう人」の観測範囲にも入りやすい。
完全な経験則だが、ブクマ数が500を越えるくらいの記事になると、大体5から10くらいは「内容を完全に誤解・曲解した」コメントをつける人がいる。
となると、書き手としては、もう最初から「そういう人もある程度の数はいるもんなんだ」という前提の上に記事を書く他ない。
「気にしない」というのも随分難易度が高いものだし、一方的に書き手ばかりに苦労が強いられるのも困ったものだが、それこそ狼男を撃ちぬく銀の弾丸を求めるようなものだ。ありきたりの話だが、最終的には「如何に気にしないようにするか」というものを、個々人で追及するしかないのかも知れない。
ブログを書く人々の心の安寧を願ってやまない。
今日書きたいことはそれくらい。
以下は関連エントリー。
自分が思った通りに自分の言葉が伝わるというのは、とても幸福な偶然なんだと思う
と発言した人の名前リンクから彼のブクマへジャンプすると、タイトルが「みんなしねばいいのに」です
考察するのもアホらしいかとw
人気記事であればある程、「そういう人」の観測範囲にも入りやすい。"
まったくもってその通りだと思うんですけど、はてブだとさらにそういうコメントに
スターが付いてるのが書き手としてはもうどうしようもないほど傷つくと思います。
単体なら「まあ、いるよね」で心のスルーができるのですが、頭おかしい意見に支持者がいるのは見ているだけで眩暈がします。